交差点の中の袋小路
怖い夢を見ているという感覚の中で、自分の性格的なものや、自分の身に降りかかってくるものを怖いと感じる方が、晴彦には辛かった。今回見ている夢も同じで、身体から滲み出る汗の気持ち悪さで目を覚ましてしまうほどだった。
晴彦は、夢の中でもう一人の自分を確かに見た。ただ、それが自分であるかどうかというのは、目が覚めるにしたがってあやふやになってくることで、ハッキリと自分だと言い切ることができない。
その人物は、いつもニコニコ笑っている。自分が笑うことで、まわりも楽しい気分になることを知っている。
――見ているだけで考えていることが分かるのだから、やっぱりこの人はもう一人の自分なんだ――
と感じた。
もう一人の自分も、この世界で結婚していた。だが、今離婚騒動が巻き起こっているようで、そのあたりは、現実の自分と同じだった。
不思議なことに、他のことならもう一人の自分の気持ちが手に取るように分かるのに、離婚に際して考えている自分の気持ちがまったく分からないのだ。
――他のことが分かっているので、すべてが分かるはずだという思い込みがあるから分からないのかも知れない――
当たらずとも遠からじだと思っているが、それだけではないような気がする。本当であれば、もう一人の自分の存在が本当にあるとしても、そのことを意識させないようにするのが普通ではないだろうか。それを分からせようとするのは、何か別の力が働いているのかも知れない。
離婚を目の前にしているもう一人の自分、どんな気持ちなのだろうか?
気持ちを表情から思い知ることはできない。何しろいつもニコニコ笑っているのだからである。般若の面とはまったく逆のえびすの顔のその下に、どんな精神を宿しているのだろうか?
一番分からないのは、晴彦本人に違いない。自分の顔だって、他の人は直接見ることはできるが、自分だけが、何かを写すものを媒体として通さなければ決して見ることができないのだ。精神状態も同じことなのかも知れない。
もう一人の自分の存在など、考えたことがある人は少なからずいるであろうが、そのことをずっと頭の中に思い描いている人は、そうはいないだろう。皆考えるとしても一瞬のことで、すぐに忘れてしまうに違いない。
もう一人の自分がいる世界には、こちらの世界と同じ人が存在している。離婚騒動が起こっている相手も、こちらの世界での妻だった……相手である。
すぐにもう一つの世界での妻の性格を図り知ることができない。いくら自分とはいえ、まったく違った性格の自分の目を通して、相手を見ることができないからだ。もし見ることができたとしても、きっとまったく違った性格の相手を見ることになるのではないだろうか?
自分自身性格が違っているのだから、目線がまったく違うはずだ。上から目線のこっちの世界とは違い、もう一つの世界の自分は、いつもへりくだっているようだ。
だが、逆の見方も考えられる。へりくだって見えているように感じるからこそ、普段の目線と違っているという思い込みから、まったく相手が見えないのではないだろうか。視界が限られていることで、まわりを余計に隅々まで見ないといけないという本能的な意識が働いて、見えてくるものも見えてくるのではないかと思うのだった。
妻は、こちらの世界と同じように、あまり目立たないタイプの人のようだ。客観的に見る限りでは、ほとんどこちらの彼女と変わりはない。そんな彼女は、一体自分のどこを好きになって結婚しようと思ったのだろう? こちらの世界の妻のことを分からないくせに、もう一つの世界の方が気になってしまうのは、おかしな現象であった。
「あなたって、どうしていつも、私を見てくれないの?」
夫婦げんかの場面にいきなり変わった。普段からおとなしい彼女で、しかもこちらの世界の彼女は、黙ったまま自分の気持ちを押し殺し、最終的に爆発させたのだから、行動パターンとしてはまったく違っている。
「黙って離れていくのなら、罵声を浴びせられた方がマシだ」
と思っていたはずなのに、罵声を浴びせられているのを見ると、それもかなり辛いものだと思えてならない。
――客観的に見せられるからかな?
客観的には「見る」というよりも、「見せられている」という感覚の方が強い。それだけ、自分のことを分かっていないのか、もう一人の自分の出現で戸惑ってしまったのか、元々が
――自分のことは、そう簡単に分かるはずなどない――
という考えが底辺にあって、それが普段は隠れた感情になっていることで、考えないようにしようとしていたのだろう。
自分のことを考えないようにすると、見えていたものが急に見えなくなることがある。妻に感じていた思いが、急に何だったのか分からなくなったことがあったが、その原因が自分のことを無意識に考えないようにしたからだということに気付いたのは、偶然であった。
世の中のことに失望した時期があった。別に直接的に自分に何かの危害が加わって、失望するだけのパンチを浴びせられたわけではない。溜まっていた何かが吹き出してきた感覚に近いものがあるのだが、ことの発端が夫婦げんかが元になっていることには違いなかった。
一度心理学の話を聞いたことがあったが、夢は何かの箱に入っていて、表から覗いているようなものだと言っていたような気がする。難しすぎて、ほとんど理解できなかったが、理解できない頭の中で、何とか結びつけたのが、その思いだったのだ。
心理学については、友達に好きな人がいて、いろいろ話を聞いたが、興味深いことも多かった。子供の頃にいろいろ考えていたことが、心理学上でもテーマとして存在していることには喜びを感じた。ただ、逆に言えば、自分以外でも感じる人がいるというのは複雑な気分だった。自分だけの世界を持っていたいと思っていたはずのものに、いくら偉い先生たちであったとしても、先駆者がいたことには、ショックを隠せない気分になっていたのである。
それでも、相手は心理学者として名前を残している人たちだ。自分のようなものの考えであっても学問として立派に残っているであれば、やはり素晴らしいことなのであろう。
学校で教えてもらえないようなことを、自分で考えて、そのことを誰かに話して評価してもらうというよりも、感心してもらうことが、至高の悦びなのではないだろうか。そう思っていると、誰よりも発想が豊かなのは自分なのではないかという思いを持つことも悪いことではないように思える。
確かに自惚れには違いない。しかし自惚れであっても、自分のすべてを否定してしまうよりもいいだろう。
自惚れであっても、自分の考えを信じることは大切で、そうでなければ、人と対等に話をすることなどできるはずなどない。ましてや人を説得するなどというのは、実におこがましいことである。
――夢の世界であっても、自惚れであっても、自分の中だけで収めておくことのできないものだ――
という考えがあるからであろうか、もう一人の自分がいる世界などという発想を思いつくようになったのは……。