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交差点の中の袋小路

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「どうしたの? 元気ないじゃない」
「ああ、少し疲れが出たようなんだ」
 妻には晴彦の疲れの原因が分かっていたように思う。どうしたのかと聞いた時点で、まるで探りを入れるような、下から見上げるような視線にドキリとしながら、視線を浴び続けるには、疲れが溜まりすぎていた。
 妻は、それ以上視線を浴びせることをせずに、表情が少しつまらなそうになったのを晴彦は見逃さなかった。
――結婚前と結婚してからでは、少し変わったかな?
 真剣なまなざしに惚れて一緒になる決意をしたのに、ただの甘えではないわがままに似たものを垣間見た気がしたことが、晴彦の心の中にちょっとした痕を残した。
 だが、旅行から帰ってくると、そんなちょっとしたわだかまりはすでに消えていた。思い出の中には綺麗な景色と楽しかった観光。そして、温泉で疲れを癒されたことが、晴彦には一番の有難さであった。
 元々、わだかまりがまったくなくて結婚したわけではなかった。結婚することで二人の中に交際期間とは違う覚悟のようなものと、相手を思いやる気持ちが再認識されたことを悟っていたはずだった。結婚ということに対して浮かれてばかりでなかったのは、晴彦の方というよりも、むしろ妻の方が強かったように思えた。
 三十五歳を過ぎた晴彦に、二つ年下の妻。決して若い新婚というわけではない。それだけに若い新婚夫婦にはない落ち着きのようなものを醸し出していると晴彦は自分で感じていた。
 妻もそれは同じで、いつもニコニコ笑っていたのは晴彦と知り合う前、晴彦は見たことはない。そのことを話したとしても、
「そんなこと、信じられないよ」
 と、一蹴することだろう。だから妻も敢えて言わないのだが、だからといって、晴彦の前でだけ他の人と同じ態度を取っているわけではない。晴彦は、そうは感じていないようだが……。
 結婚したことで何が一番変わったかというと、まわりの女性をジロジロ見なくなったことだ。付き合っている頃は、結構目移りしたもので、妻はきっとそれが晴彦の悪いくせだと思ってあきらめの境地だったのかも知れない。
 晴彦にとって結婚は、一大イベントだったに違いない。彼女が妻と呼び方が変わったことがこれほど大きな影響を自分に対して与えようなど、想像もつかなかった。
 一緒に暮らし始めたことは、それほどまではなかったが、気分的には有頂天で、舞い上がった気持ちになっていたことも否定できない。
「結婚するということは責任を背負うことになる」
 と言われても、そこまで現実味を帯びていなかった。
「結婚ごっこ」と言われても仕方がなかったが、現実味を帯びていないのだから、緊張感の持ちようもなかった。
 新婚生活とはそんなものであろう。そのうちに現実味を帯びてくるのだろうが、晴彦はいつまで経っても結婚ごっこを脱着できないでいた。
「いつまでも新婚気分じゃいけない」
 と思ってみても、新婚時代から何が変わったと言って、何も変わっていない。妻にしてもそうだった。お互いに趣味を持っていたこともあって、自分の時間も大切にしていたのだ。
 趣味の時間を大切にするということは、それだけ相手の気持ちや立場を大切にしているということであり、晴彦は、自分の妻にはそのことを求める前から備わっていたことは嬉しかった。
 妻のいいところは、晴彦のことをすべて把握していたことだった。
「すべて分かっていて、結婚してくれたんだ」
 というと、
「あなたは本当に分かりやすいからね、私にとっても、操縦しやすいのよ」
 と言って笑っていた。
「操縦しやすいとは、まったくもって失礼千万」
「だって、その通りなんだもん」
 と、言い返してくる。朗らかな空気がその場を包んだ瞬間だった。
 そんな中、少し気になるのが、妻の両親が、あまり晴彦のことを気に入っていないというところだった。
 気に入ってもらっていないのは分かっていたので、さぞや、結婚には大きな障害となるに違いないと思っていたが、そこまではなかった。
 それほどの障害もなく結婚できたのは、幸運だったのかも知れない。思い切り反対されたら、本当に結婚まで行きつけたか、自信がなかった。あまりにも反対が大きいと、彼女が諦めの気持ちになるかも知れない。もし、そうなれば、彼女の精神が異常をきたすかも知れないということは、想像できた。それだけに、抑えることができるのは晴彦だけなのだろうが、抑えることができる自信はハッキリ言ってない。そう思うと結婚というものを、再度考え直すことになるのは、容易に想像のつくことだった。
 晴彦が結婚してから時々感じるのは、
「こんなに幸せでいいのだろうか?」
 ということだった。
「好事魔多し」
 ということわざもあるが、確かにいいことばかり続いていると、言い知れぬ不安に襲われることになる。避けることのできないもので、人間の性のようなものではないのだろうか。
 悪いことばかり起こった時には、
「今が一番最低なんだから、後は上を目指して昇るだけだ」
 という考えと正反対である。
 最悪の時期も晴彦は経験したことがあった。大学の入学試験の日、本命と思っていた大学の試験の日にお腹を壊して、まともに試験を受けれる状況でない中で、何とか試験を受けたが、結果は不合格。まわりからは、
「あそこなら大丈夫だろう」
 と言われ、自分もその気になっていた。
 だが、結果は不合格、まわりは誰もその日、晴彦が体調の悪かったことを知らない。完全にやせ我慢で試験に臨んだのだ。
 じっくりと見ていれば、異常にすぐに気付くだろう。だが、入学試験である。
「顔色が悪いのは緊張感から」
 誰もが、そう思っていたに違いない。
 晴彦はまわりに自分の体調の悪さをあまり出さない方だ。我慢強いわけではなく、まわりから気にされると、余計にきつくなるからだ。心配そうな顔で覗き込まれると、自分の想像以上に悪い状態なのだと思い込んでしまうからだ。足が攣った時など、痛くてたまらないのに、まわりに悟られないようにするくせがあったが、それを晴彦は自分だけだと思っていた。だが、実際には自分だけではなく、ちょっと話題に出すと、
「俺もだ、俺も」
 と、皆が反応する。話の中でタブーとなっていただけで、考えていることは同じだったのだ。そう思うと、
「誰もが考えていないことを、自分だけが考えていると思うことでも、意外と皆感じていることが多かったりするのだろう」
 と感じるのだった。
 そんなこともあったのを思い出しながら、その時の幸せを身に染みて感じていた。もちろん、ずっと続くとは真剣には思っていなかったが、悪くなる要素が浮かんでくるわけではない。
 妻はその時、どう思っていたのだろう。同じように幸せを感じてくれていたと思っていたが、その通りだったのだろうか。幸せというのは、お互いの気持ちが離れていては、絶対にありえないことだと思う。ということは、晴彦の勘違いでなければ、妻も同じ気持ちだったはずだ。
「僕のことなら、何でも分かってくれているんだ」
作品名:交差点の中の袋小路 作家名:森本晃次