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交差点の中の袋小路

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 と、言っていた人がいたが、最初は何のことか分からなかったが、自分が描くようになると、その気持ちが分かるようになってきた。
「では、一体何を省けばいいというのだろう?」
 と思うと、これが結構難しい。
「この世に存在するもので、省略できるものなどどこにもない」
 という気持ちがあるからだ。
 無駄なものがあるとすれば、人によって見えたり見えなかったりするものがあれば、
「この世にとって無駄なものの一つなのだ」
 と思うこともできるが、そんな経験をしたこともなければ、聞いたこともない。
「いや、果たしてそうなのかな?」
 中学の時に盗み見た屋敷の部屋にあった無意味に広い部屋、いわゆる「画廊」に飾ってあった絵、その絵を見ることができたのは少しだけだった。何度か見ようと試みたが、画廊の中にあった絵がなくなっていたのだ。
 移動させたと思えば、何の不思議もないのだが、翌日には違う絵に変わっていて、さらに翌日には、元に戻っているのだ。その日一日が自分にとって、架空だったのか、それとも、たった一日だけ見せられた絵がそれほど印象的なものだったのか、明美には分からなかった。
 絵を見ていると、まったく両極端な感覚を抱くことがある。冷徹で冷たい空気の中、通り抜ける風に痛みを感じながら佇んでいるような感覚に陥りながら眺める絵は、まるで厳冬を思わせ、暖かな空気が爽やかさを伴った風を吹かせるが、風が吹いていることすら感じさせない自然な佇まいに、春の安らぎを与えられたような絵を感じるのだった。
 安らぎの中で、感じるのは、香りであった。風がほのかな香りを運んできてくれる。厳冬であっても安らぎの中であっても、与えられることに変わりはない。素直な気持ちで迎え入れようとするならば、なぜ暖かい安らぎだけにならないのかが、とても不思議に思う明美であった。
 だが、すすきの穂に感じるのは、暖かさではない。ましてや厳冬のような苦しみでもない。そこにあるのは、自然を受け入れようとする気持ちが、すすきの穂の高原として、明美に見せたものであった。
 その場所を教えてくれたのは、美術部の先輩だった。彼女がいうには、
「あなたの目にはどう映るかしらね?」
 というものだった。
 先輩もこの場所を、他の先輩から襲えてもらって、訪れたのだという。
「私が行ったのは、その時一回きり。一回であの光景を絵にするのは至難の業。でも私は私なりの絵を完成させた。それを公開しようとは思わないんだけどね。公開するということは、自分を否定するんじゃないかって思うからなの」
 どういう意味であろうか?
 一度では描けない。それでも描いたということは、それだけ印象に残っていたということなのか、それとも、写真に撮っておいたのかのどちらかであろう。
 ただ、写真に撮っておいたということは、考えられないと言ってもいいだろう。先輩がそんなことをする人ではないということも一つだが、公開していないというところに正直な気持ちが隠されているように思う。
 自分が描くには、あまりにもテーマとして被写体が壮大すぎると感じたのかも知れない。それは目の前に広がる、永遠の広がりを見せるかと思わせるようなすすきの穂の光景。見たものでしか分からないだろう。
 じっと見ていると、次第に目の前の光景が小さくなっていくのを感じる。それに伴って空が大きく感じられ、まるで動かないはずの光景が動いているのだ。
「大胆に省略するのも必要だと言っていた言葉も、この光景を見ると納得できるものがある」
 と感じた。
「動く景色」
 細かい風景が動くのは当たり前だが、被写体全体に擦れが生じるようなものは、感じたことがない。それこそ、錯覚がなせる業なのではないかと思う。
 小さく見えるということは、それだけ遠くに見えることであり、さらには視界が広がることを意味している。一つの錯覚から、いくつもの波及する感覚が生まれてくるが、それだけにどれを省略していいのか難しいところだ。
 省略すると一口に言っても簡単なことではない。下手に省略してしまうと、元々の性質を損なってしまう危険性がある。あたかも見えている光景が変わることなく、錯覚を生かしながら、いかに忠実に描けるかという、矛盾とも思える考えが絵画の中には必要なのではないだろうか。
 最初は小さく見えていた光景が、今度は一点に集中して見るようになってくる。意識してではなく、勝手に目が動くのだ。
 そこには、客観的に見ている自分が影響しているかのように思えることがあった。
「もう一人の自分」
 という存在を意識することは今までにも何度かあったが、絵画では現れることはないと思っていた。絵画を描いている自分が、普段の自分とは違うと思っているからで、普段の自分が一体どういう性格なのかということを時々考えさせられる時でもあった。
 すすきの穂が見える光景は、今までに想像したことがあるものだった。夢の中で見たものだったが、いきなり現れた目の前の光景に、
「ここは一体いつの時代なのかしら?」
 と呟いた。
 最初に感じたのは、文明の始まる以前の時代。稲作が始まってすぐの弥生時代を彷彿させた。誰もいないところに風だけが吹いているのは、まさしく弥生時代にふさわしい。そう思いながら歩いていると、前から馬に乗った武者が現れた、
 鎧を身に纏っているのを見ると、戦国時代を彷彿させるが、一気に飛んでしまった時代を考えると、そこに人間の限界を超えた何かが存在しているように思えた。欲と本能が入り混じった世界、それが、すすきの穂がたなびく、果てしのない平原の広がる世界なのだった。
 時代を飛び越えた感覚を味わっていると、すすきの穂の世界が、今度は、絵の中の世界であることを思い出してきた。
 どこで見た絵だったかハッキリと覚えていないが、美術館のようなところではなく、喫茶店だったのだと思うと、自分が見た絵に魅せられて、同じような光景の場所をよく捜し当てられたものだと思うのだった。
「本当によく似ている」
 実際にその場所に立ってみて、本当に似ていることに気付かされる。プロの絵ではなかったはずなのに、印象に残っているのは、全体的にまとまりのある絵だったからだ。
 西洋館から出てきた男の子が、絵を描いているところを見たことがあった。あれは、いつものように河原で佇んでいた時、絵を描いている後ろ姿を見たのだった。ただ、男の子が描いている絵は、明らかに目の前に広がっている絵ではなかった。不要なものを省略するなどというレベルのものではなく、まったく違ったものを描いているのだった。
――いつの時代のものなのだろう?
 と、最初から時代に目が向いてしまった。目の前に人がっている光景が違っているのは、違う場所を描いているわけではなく、同じ場所の違う時代が見えているということなのであった。
 西洋館から見た景色、それも違って見えていたのかも知れない。彼が、妄想を抱いている時、その時に見えるのは、絶えずすすきの穂が生え揃った、風に舞う様子を描いている自分の姿だったのかも知れない。
作品名:交差点の中の袋小路 作家名:森本晃次