交差点の中の袋小路
絵を上下に半分に割ると、少し下の部分に地表があり、横を半分に割ると、真ん中よりも少し左側に一本の木が植わっていた。
小高い丘のようになっているところに一本の木が植わっていて、その隣には、安楽椅子のようなものが置かれている。この絵に感じるイメージは、
「だだっ広さ」
というイメージだった。
絵の中に人は登場しない。上半分は空になっていて、背景に山がそびえているわけではない。真っ青な空が水平線から伸びているのだ。太陽が照り付けている雰囲気も感じない。女性二人の会話の中にある「冷たいイメージ」というのは、太陽を感じさせず、真っ青な空に対して感じたことではないかと、明美は思えたのだ。
この二人の女性の会話を聞いていると、どこかおかしな雰囲気を感じた。常識とは少し趣きの違う会話で、
「ピカソの絵を思わせるわ」
「どこが? あの人の絵というと、人には分からないような絵を描く人の絵だってイメージが強いのに。この絵は、本当に単純に描いているだけじゃない」
「そう? 私には、裏にいろいろ見えるんだけど?」
「いろいろというと?」
「そうね、ここに一人の男性が佇んでいて、誰も座っていない安楽椅子をじっと眺めているのよ。しばらくして男の人はいなくなったかと思うと、安楽椅子に一人の女性が忽然と現れて座っているの」
「絵に流れがあるというの?」
「だから、イメージというのかしら? いろいろなイメージが思い浮かぶことから、まるでピカソだって言っているのよ」
――絵の世界をあまりよく知らない人が、絵を見て不思議な感覚を覚えた。その不思議な感覚を表現するのに、ピカソという人物を使った――
そういうことなのだろう。
絵を見て神妙になったのは、それだけ二人に絵は何かを訴えたに違いない。それは、同じように見ている明美とはまったく違った感覚だ。その感覚を与えたのは絵までの距離なのか、それとも角度なのか、少しでも違えば、感じ方がまったく違うように思えてならなかった。
その絵のことを考えていると、何か不思議な胸騒ぎを覚えたのだ。
その絵を最初に見て、女たちが絵のことを話し始めたのが、十日前くらいだったであろうか。それまでにこの店には四回ほど来ているが、絵が気にならなかったことはない。毎回本を読みながら見つめていると、絵が迫ってくるような感覚に陥った。
「絵の中に何かがいる」
と思うこともあったり、
「以前にも同じ絵を見たことがある」
と思ってみたり、あるいは、
「これと同じ絵を、将来、違うどこかで見るような気がする」
ということであった。
そのどれもが、過去に起こったであろうこと、未来に起こることを感じさせるもので、その時に絵にだけ注意を払っていてはいけない気がしていた。
過去のことであれば、その時にひょっとすると、他に何か大きな出来事があったのかも知れない。だから、絵を見たはずなのに、見たことすら覚えていないのだ。それが何だったのか覚えていないのも、絵の魔力に知らず知らずに引き込まれていたからなのかも知れない。
妙な胸騒ぎがしたのは、その時だけではない。明美には妙な胸騒ぎを覚えるくせのようなものがあった。それが身についたのは、診療所に祖母に連れられて行ったあの時からではないだろうか。
診療所には、ビジュアルを感じさせるものは何もなかった。テレビもなければ、絵一枚も掛かっていない。そのことに明美は気付いていた。気付いていて誰にも気づいていることを言わなかった。もちろん祖母にも、診療所の人に聞くこともしなかった。家に帰ってから両親に話すなどということは、もちろんなかったことである。
両親に対しては、診療所のこと以外でも何も話をしない。話をしても、まともに相手をしてくれるわけもなく、黙っているだけだった。何かを話すとすれば祖母にだけなのだが、明美にとって、祖母は駆け込み寺のようなものでもあった。
――両親に話すことのできないことを祖母が受け止めてくれる――
祖母は、期待している答えを返してくれるとは限らない。ただ、黙って聞いているだけの時もある、
両親に話すのが嫌なのは、何も返事が返ってこないからだが、同じ返事が返ってこないと言っても、祖母を相手に話をするのとでは、まったく違った。
まったくリアクションが感じられない両親に対して、祖母はニコニコ笑顔が絶えなかった。返していい返事と、黙って聞いてあげるだけでもいいことの判断を祖母は分かっているのだ。
両親を見ていると、永遠に交わることのない平行線を感じる。まったく感じられないリアクションは、どこまで行っても、まったく同じで、たまに目が合えば、吸い込まれそうな大きな目で、見下すような態度で睨みつけられると、恐怖以外の何物でもない感覚に陥ってしまう。
「これが本当に自分の親なのか?」
と疑いたくなるくらいで、まだ、十歳にもなっていない女の子には、恐怖以外に感じるものはない。
ただ、両親のこの目も、将来どこかで見るような気がした。胸騒ぎのもう一つの理由は、この目のために、将来にわたって苦しめられる気がしたからなのかも知れない。
この目を自分に浴びせる相手が、両親かどうか、分からない。上から目線で見下ろされて、逃れることのできない感覚は、檻の中に閉じ込められたというよりも、もっと身動きのできないものの中に押し込められて見下ろされる感覚だ。
その時に見ている相手が、本当に自分を一人の人間だという目で見ているのかどうか、それが不安に陥る胸騒ぎの正体だった。
――ひょっとして、両親は、私を一人の人間として見ていないのかも知れない――
そんなバカなことはないだろう。
だが、両親が明美のことを、見下ろすような目で見ていたのは、祖母が診療所に通うようになってからの数か月間だけだった。それ以降は、あまり優しいというわけではないが、最初の頃のような胸騒ぎを引き起こすほどの、見下ろすような目つきはなかった。見下ろす目つきがなくなってから、その目つきの本当の恐ろしさが、突き刺すような痛みを感じていたことだったのだと気が付いたのだ。
祖母の笑顔に癒されていたわけではあるが、胸騒ぎは取れなかった。胸騒ぎは祖母に対して起こるもので、
――祖母から嫌われたらどうしよう――
というような胸騒ぎではなかった。祖母がいなくなった後の自分を憂いているのであって、一人になることの恐怖を、最初から抱いていたのである。
祖母が死ぬことを考えていたわけではない。どこか、明美の知らない土地に行ってしまうという意味で、それは死というイメージではなかった。
――子供なのに、死のイメージを知っているわけもないのに、どうして、違いが分かったのだろう?
これから感じるであろうことを、予知できる何かを明美は持っていたのかも知れない。だが、それも今だから思うことで、その時に感じたわけでもなく、実際にいろいろ分かってくるようになると、予知なるものを自分ができるかも知れないなどという感覚は、まったくなかったのである。