一日百時間
――きっと、それが娘だとは思えなかったのではないだろうか。そこにいるのはまったく知らない人という思いを抱き、娘だということを認めたくない自分がいたのではないだろうか?
と思えてならなかった。
人間というのは、究極の現実を目の前にした時、どんなにショックなことが起こっている時でも、急に笑い出したりするという話を聞いたこともあれば、テレビドラマでそんなシチュエーションも見たことがあった。その時に、
――きっと、目の前の現実から逃げたい一心で、自分ではない自分を演じてしまう気持ちになっているんじゃないかしら? しかも無意識に――
と、感じたものだった。
香澄は、実際に自殺をしている場面を見たことはなかったが、血まみれの、虫の息になった状態の人が運ばれてくることで、緊迫とパニックの境目ギリギリの状態に、いつも身を置いていることを自覚していた。そういう意味では、実際の自殺の場面を見たことはなかったが、それに近い緊張は何度も体験している。場数を踏んでいるという意味では、成因的にはかなり図太くなっているように思う。それは自分が自ら望んでのことではないが、ナースを志した時点で、避けて通ることのできない道だということは覚悟していたつもりである。
ただ、
――自殺をする人の心境が分からない――
という思いはあった。
「死のうと思うくらいなら、死んだつもりになって頑張ればいいのに」
と言っている他のナースの言葉を聞いて、
「まったくその通りね」
と、賛同したものだった。
考えてみれば、香澄は自殺したいと思うほどの精神状態になったことはなかった。
――死ぬということほど怖いものはない――
という思いが前提としてあり、そういう意味では、死んだつもりになれば、何でもできるという人の言葉にも賛同できた。
ネガティブな性格が、本当は功を奏していたのだが、本人にはその自覚がなかった。
「自覚というのは、本人がそうだと思い込むだけでは持つことはできない。何かプラスアルファが存在するんだ」
看護学校の何かの授業で、そんな話をしている先生がいた。
その先生は別に心理学が専攻ではなかった。もし、心理学の先生のいうことなら、それほど記憶の中に残ることはなかっただろう。心理学ではない先生の言葉だから心に残ったと言えるのは、普段から、自分のことを自覚が足りないと言い続けている人がいたからだった。
口を酸っぱくして、そんなことを言っていたのは、母親だった。しかし、香澄には肝心なことが分かっていなかった。
――自覚って、いったい何の自覚なの?
母親は、自覚の元については何も言わない。
言わなくても分かっていると思っているのか、それとも言わずに、気づかせることが目的なのか。
ただ、種類が分かっていないということは、気づく以前に、意識することができなかった。せっかくの母親の思いも、娘には通じなかったということであろう。
どうして通じなかったのか、母親は分かっていたのだろうか?
「どうして、あなたはそんなにいつも一人になろうとするの?」
と口にしていた。
孤独を欲するということと、発想がネガティブになるということは、段階を追うことで因果関係を持つことができる。
「発想がネガティブだから、孤独を欲するのか、孤独を欲するから発想がネガティブになるのか、そのどちらもありえることだわ」
香澄は、どちらかが「減算法」で、どちらかが「加算法」だと思っている。
自分は加算法ではないかと思っている。本当であれば逆を思うのだろうが、ゼロから少しずつ積み重ねていくということは、発展性がある進歩的なことだと思いがちだが、どこに終点があるか分からないアリ地獄のようなものに思えてくる。これほどの不安はないと思うことが自分をネガティブにするのだと思う香澄は、発想がネガティブだという思いが根底にあり、その思いから、孤独を欲しているのだと思うようになった。
香澄が今の正孝を見ていると、
――彼は私にないものを持っていて、私も彼にないものを持っているような気がする――
その思いが、中学時代に彼のことが気になっていた理由だったのではないかと、無意識に感じるようになっていた。
そう思いながら、彼の左腕のサポーターを見ていると、彼が隠そうとしているものが何なのか、分かってきたような気がしてきた。
香澄はそれを確かめるため、直接先生に聞いてみることにした。先生とは、正孝が記憶の一部を失っているということを自分に告げてくれた先生のことである。
「先生は、久保さんの左腕のサポーターの下がどうなっているのか、ご存じなんでしょう?」
いきなり聞いたので先生は戸惑っていた。いくら医者とナースの間でも、患者の秘密に対しては守秘義務があるだろうからである。
「どういうことなんだい? 僕が患者の秘密を話すと思っているのかい?」
口調は少し強めだったが、顔は笑顔だった。
「すみません。そんなつもりではないんですが……」
香澄は、そこまで聞くと、それ以上、先生に詰め寄るつもりはなかった。今の先生の言葉が、自分の想像の裏付けであったということが分かったからだ。
もちろん確信とまでは行かないが、知りたいことのほとんどが分かった気がしたので、それで満足だった。
先生もそのことが分かっていたのだろう。
「じゃあ、僕もこれ以上の話はしないね」
と言ってくれたので、
「はい、ありがとうございます」
お互いの以心伝心が通じ合った瞬間だった。
「それにしても、君も思い切ったことをしたものだ。そんなに彼のことが気になるのかい?」
「ええ、中学時代、彼が重い病気に罹っていて、治ったという話だったんですが、実は今でも少し気にはなっているんですよ」
先生は少しその話を聞いて意外そうな気がしたようだったが、
「そうだったんだね。今の彼は記憶を失っているところがあるけど、それ以外は別に問題ないんじゃないかな?」
と言っていた。
その言葉をどこまで信じていいのか分からなかったが、とりあえず先生を信じることにした。
「まずは、彼の記憶が戻ることが先決なのかも知れないね」
と、先生は言った。
「まるで段階があるような言い方に聞こえましたが、どういうことなんですか?」
「どの部分の記憶を失っているのかが分からないからそう言ったまでで、物事というのは、たった一つのことで元に戻るほど単純なことばかりではないということになるのかな?」
曖昧な口調だったが、先生の話を聞いていると、まさしくその通りだという思いに駆られるのは自然な感覚だった。
ただ、香澄の中で、
――本当にそうなのだろうか?
と思うこともあった。
「でも先生、記憶喪失の人の記憶が戻る時というのは、ある一瞬をきっかけに戻ることも多いと聞いたことがありますが?」