一日百時間
「それは、そのある一瞬というのが、記憶を解くカギがその一瞬にある場合のことを言うんだと思うんだけど、その場合は、失った記憶が一種類の時だけのことだと思うんだ。一種類というのは、つながりのある記憶という意味で、もし彼の失われた記憶がすべて繋がっていることであれば、その『ある一瞬』で記憶を取り戻すことができると思うんだが、つながっていない記憶が存在するのであれば、中途半端な記憶の取り戻し方をすることはないはずなので、少し時間が掛かると思う。そういう時は、焦らずに長い目で見守ってあげるしかないんだよ。記憶を取り戻すということは、最後はすべて彼の問題なんだからね」
なるほど、先生の話はよく分かった。
「一日が百時間あれば、彼の失われた記憶もゆっくり取り戻すことができるのかも知れませんね」
香澄がなぜその時そんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。
しかし、それを聞いた先生は実に興味深げに香澄を見つめていた。
「そうだよね。なかなか面白いことを言う。まさしくその通りだ」
興奮気味になっている教授を見たのは、後にも先にもその時だけだった。
「一日が百時間あったら、人の寿命も延びるかも知れませんね」
香澄は、自分が言ったにもかかわらず、まるで他人事のように話している。
それを聞いた先生も少し不思議そうな表情になったが、すぐに元の顔に戻り、ニコニコしながら、香澄を見つめた。
「そうだね。でも、あまり寿命が延びるというのも、困ったことかも知れない」
「そうなんですか? だって、一人だけの寿命が増えるわけではなく、人間全体の寿命が増えるんだから、問題ないかも知れないですよ?」
「月日や時間という単位は、人間だけのものなのか、それとも他の動物にも言えることなのかによっても考え方は変わってくるよね。自然界の循環を考えると、人間だけの寿命が延びるということは、摂理的にも大きな問題だと言えるのではないかな?」
「でも、自然界全体が伸びれば、問題ないのでは?」
「どこまでその理屈が通用するかだよね。地球単位、宇宙単位と想像していくと、小さな問題なのかも知れないけど、バランスを崩すことになりかねないと思うんだ」
香澄は先生の話を聞きながら、自分でも考えてみた。
ただ、話が次第に大きくなってきたので、それ以上、この話題を続けるのは難しいと思った。
どうやら先生も同じことを考えていたようで、すぐに、
「まあ、あまり深く考えてしまうと、眠れなくなりそうなので、この話はここまでにしておこう」
「分かりました。お話いただいてありがとうございました。では失礼します」
と言って、先生の部屋を後にした。
先生との話の中で、正孝の手首の正体が分かった気がし、そして会話の中で、急に百時間という発想が香澄の中に以前からあったような気がしていたという新しい発見をすることができた。
香澄は、百時間の発想は、自分の中にあるネガティブな発想が影響しているのではないかと感じるようになった。百時間という発想が、それから事あるごとに香澄の中で思い立つことになるのだが、それはまだ少し後のことだった……。
第二章 夢の中の夢
香澄は先生との話が終わった後で、一番聞きたかったことが自分の想像していたことだったという確信めいたものを得ることができた。
――やっぱり彼は、自殺未遂をしたんだ――
彼の中のどこに、自殺する雰囲気があったのか分からないが、
――あの人なら、自殺しても不思議ではない――
という思いがいまさらのようにあった。
それは先生と話をするまでは、半信半疑だったはずの思いが、いつの間にか確信だったような気がしていたからだ。
先生の話に説得力があったのか、それとも彼の記憶が欠落していることと、中学時代の重い病というキーワードが、香澄の中で、
――少々のことなら驚かない――
という思いを感じさせたからに違いない。
正孝の記憶が欠落しているのに、自分のことを覚えてくれていたことは嬉しかった。記憶が欠落しているのは、消したいと思っている記憶があるからで、その記憶を完全に消すためには、思い出したくない記憶に関わるすべてのことを意識しないようにしようとするだろう。そう思うと、香澄には彼が消したいと思っている記憶について、知る由もないはずだ。
――彼には、私の知らない過去が、まだまだたくさんあるんだ――
と思うと、
――その記憶を知りたい――
という思いと、
――消したいと考えているほどひどい記憶を、知るのは怖い――
という気持ちの両方があった。
以前なら、怖い方が強烈で、知りたいと思うことすらなかったはずなのに、今知りたいと思うのは、単純な好奇心からではなく、それだけ彼に対して思っているよりも感情が深いものであるに違いない。
香澄は、仕事柄、自殺しようとして運ばれてきた救急患者を何度も見たことがあった。真っ青な顔で虫の息になっている。緊急には慣れているつもりでも、自分よりも若い女の子が瀕死の状態で運ばれてきて、自殺未遂だと聞かされると、どうしても感情移入してしまいそうな気がしてくる。
――どうして自殺なんて――
自分がその娘くらいの頃、自殺なんて考えたことはなかった。普段からネガティブで、逃げの姿勢を取ったまま過ごしていると、えてして、そこまで思い詰めることはない。
思い詰めたとしても、衝動的に自殺を考えるような精神状態になることはない。普段から、
――自殺を考えるなんて、逃げている証拠だわ――
と、自分の姿勢を顧みることもなく感じるというのは、
――自殺を試みる人たちとは、しょせん分かり合えるわけはないんだわ――
と思っているからだった。
自殺を試みるのは、女性ばかりではない。もちろん男性もたくさんいる。年齢的には自分よりも年を取っている人が多いが、たまに学生の男の子もいた。
見るからに、
――この人なら自殺をしても不思議のない雰囲気だわ――
と思わせるような男の子で、きっと学校では、「パシリ」をさせられているに違いない。
苛めをする方は苛められる側の気持ちを分からないと思っていたが、本当にそうだろうか?
香澄は学生時代までは分からないものだと思っていたが、実際に病院に勤め出して、救急の患者を見続けてくると、それまでの考えを変えて見てみようという思いが募ってくるのを感じていた。
苛めにしても、苛める側の人たちにも、苛められる人の気持ちが分かっているから、苛めを繰り返している人もいるのではないだろうか。
――苛めなければ、自分が苛められる――
まるで弱肉強食の世界に身を置いている感覚で、苛められる人の気持ちが分かるからこそ、
――苛められたくない――
と思うのだ。
香澄は、あまり人と馴染んだりしたくなかった。自分は目立たず、一人蚊帳の外にさえいれば、苛める側にも苛められる側にもなることなく、すべてを「中立」という立場の下で平穏に過ごしていけると思っていた。