一日百時間
運命というものが本当にあるなど、それまで感じたことがなかった。言葉では聞いたことがあって、運命についておぼろげにどんなものか想像はついていても、それが自分に関係してくることだと思わなければ、それはあくまでも他人事でしかないのだ。
香澄が初めて運命を感じたのは、彼女が勤めていた病院に一人の青年が入院きたことだった。その青年は交通事故に遭って、足の骨を折り、頭も打っていたが、幸い精密検査の結果、脳波に異常はなかった。青年の母親はホッと胸を撫で下ろし、安心していたようだ。しかし、香澄にはその家族に見覚えがあった。特に母親の表情に見覚えがあり、
――この人は、いつもこんな表情しかできない人だと思っていたような気がする――
と感じた。
そう思うと、その青年が誰であるか分かった気がしたが、引っ込み思案な香澄からその話題に触れることはなかった。
「あの、間違ったらごめんなさい。中学の時に一緒だった工藤香澄さんかな?」
「えっ?」
香澄の想像していた通りの人で、しかも相手は香澄のことを覚えていた。その青年は、香澄が気になっていた病気で休みがちだった彼だった。
彼の名前は、須崎正孝という名前だったはずだが、病室の札を見ると、久保正孝になっていたので、最初は分からなかった。
「須崎君ですよね?」
「ああ、僕の苗字が変わっているから違う人だと思っていたんだね? 実は両親が離婚して、今は母親方の苗字になったんだ」
「そうだったんだ」
一体彼の両親に何があったというのだろう?
子供が病気がちで、子供のことを一番心配していたのは母親だった。今回、交通事故に遭って入院した時に見せた母親の表情は、昔とまったく変わっていない。
――いつも息子のことを心配している母親――
まさしくその表情だったのだ。
もちろん、人の家庭のことをあれこれ聞いてはいけない。特に今は患者とナースの立場なのだ。そのあたりは、
――わきまえておかなければいけない――
と思いながらも、必要以上のことを詮索できないやりきれなさは、今までにないほど大きかった。
特に相手は中学時代の頃とはいえ三年間、ずっと気になっていた初恋の相手なのである。
「初恋は淡く切ない、成就しないもの」
と言われるがまさしくそうだった。
しかも、彼は香澄のネガティブな性格を自覚させる決定的な存在だっただけに、目の前からいなくなったことで、その答えを見つけることができず、まるで取り残された気分になったことで、その存在は、
「忘れてしまうことができない」
とずっと思ってきたのだが、気が付けば忘れていた。
それはある日突然のことだったのだろうが、本人には意識がないのだ。
――きっと、記憶の奥に封印されているに違いないんだわ――
香澄は物事を完全に忘れてしまうことはないと思っている。忘れてしまったと思っていることは記憶の奥に格納されるものだと思っているのだが、それも限界がある。格納されている記憶は、その中で、
――どうしても忘れたくないもの――
を除いては、自分の中から削除されてしまうのだろうが、忘れてしまいたくないもの、本当に忘れられないと思っているものに関しては、記憶の奥に、封印されるという形で残されるものだと思うようになった。
彼の存在は、記憶の奥に封印された「意識」だったのだ。
ただ、香澄の中で彼の存在は記憶の中でしか存在しえないもので、記憶の奥に封印してしまおうと考えた時、
――彼とは、きっともう会うことはできないだろう――
と思っていたのだ。
しかし、まさかのまさかの再会である。偶然などという言葉で片づけられるのだろうか?
彼の前では、
「本当に偶然よね」
と言って微笑んで見せたが、本心からではないことで自分がウソをついていると自覚している自分が情けなかった。
「偶然なんかじゃないさ。僕はずっと君に会ってみたいと思っていたんだ。願っていたことが叶ったことを偶然という言葉で僕は言い表したくないんだ」
と、正面から真剣な眼差しで言われると、
「そうね。私もきっとあなたに会いたいって思っていたのよ。だから会うことができた。お互いに思っていないと、うまい具合に再会なんて果たせないと思うの」
いつものネガティブな性格が彼との会話の中では表に出てくる気がしなかった。
――彼の前では、私は別人なのかしら?
それとも、口から出てくる言葉は、彼を看病するナースとしての思いからなのかも知れないとも思ったが、それだとあまりにも寂しい気がした。やはり、ここは自分の気持ちに素直になるのが一番であろう。
「僕は、中学の頃、結構重い病気に罹っていたらしいんだけど、長い間の静養と、何度か施してもらった手術のおかげで普通に性格できるようになるまで回復したんだよ。これに関しては、両親に感謝だと思っているんだ」
「お父さんとは、時々会っているの?」
「ああ、親権は母親にあるというだけで、僕は自由に父親に会うことはできた。でも、母親の手前、そうしょっちゅうは会うことはできないけど、それでもお互いに満足できるくらいには会っているつもりだよ」
「それはよかった」
「それに、毎日一緒に暮らしていても、なかなか時間が合わずにすれ違いの毎日を過ごしていることを思えば、たまに会うという方が新鮮なのかも知れない。男と男の会話ができていると僕は思っているんだ」
彼の表情は晴れやかだった。
――中学時代の彼も似たような表情だったわ――
病気がちだったこともあって、どこか贔屓目に見ていた気はしたが、それでも、今の彼の表情を見て、
――懐かしい――
と感じるのは、
――今も昔もこれが彼の顔なんだ――
と思うからだった。
彼が入院してから一週間が経った頃のことだった。
朝の申し送りの時、婦長の隣には医局長がいた。
「三〇二号室に入院している久保正孝さんのことですが、当初、彼の入院は十日ほどのものだと判断していましたが、精密検査を続行する関係で、入院が一か月くらいになると思われます」
という話だった。
香澄は複雑な心境だった。
正孝が中学時代に重い病気を患っていて、本人は今は、
「治った」
と言っているが、本当にそうなのかと疑いたくなるような宣告だったからだ。
だが、まだ彼が入院していてくれるという思いは、一緒にいられるという思いと同じに感じられ、まるで少女のような気持ちになっていた。
香澄は申し送りの後、医局長に直接聞いてみた。香澄は正孝の担当ナースという立場から聞いてみたのだ。
「久保さんの状態、お悪いんですか?」
「いや、そんなに心配することはないと思うんだけど、少し彼と話をしていると気になることがあってね。ひょっとすると、記憶の一部を失っているのではないかと思ってね」
「えっ?」
「と言っても、それが直接普段の生活に影響してくるということはないので、そんなに心配することはないと思うんだけど、せっかく入院しているんだから、そのあたりの検査もしてみようということになったんだ」
「実は私、彼とは中学時代の同級生だったんです」
「そうだったんだね。じゃあ、彼が中学時代に思い病を患っていたことは知っているよね?」
「ええ、でも治ったと聞きました」