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一日百時間

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「これくらいでへこたれるようなら、一人前になんかなれないわよ。あなたの目標は何なの? ナースになること? それとも、患者さんのために尽くせるナースになること?」
 と、言われた。
 確かに、冷静に考えれば分かることなのに、この間までナースになったことで有頂天になっていた気分を、そう簡単に払しょくできるものではない。
「すみません」
 ただ謝るしかなかった。
 その態度に先輩はさらに怒りを増幅させていた。
「何、その取って付けたような謝り方は? 全然気持ちが入っていないじゃないの」
 と、それまでの態度に怒りが見えてきた。
「あなた、私をバカにしてるの?」
 さらに追い打ちをかける。
「いえ、そんなことは決して」
 完全に受け身態勢だ。
 受け身態勢になっているくせに、気持ちのどこかで反抗的になっているのだろう。言葉と気持ちのアンバランスを感じた香澄は、次第に自分ではどうにもならなくなっていた。――このまま黙ってやりすごそう――
 と思った。
 こんな時、ネガティブな性格が功を奏したのだろうか。やり過ごすことはどうやら、苦手ではないようだ。屈辱に真っ赤になった顔を下げたまま、何も言わない。先輩の興奮が収まるまでの我慢だと思った。
 そのうちに疲れてきた先輩は、
「今日はこれくらいにしておきましょう。でも、しっかりと考えなさいよ」
 と言われて、香澄もホッとして、
「はい」
 と、やっとの思いで返事をした。
 まわりの同僚が、心配して先輩がいなくなって声を掛けてくれる。
「大丈夫?」
「ええ、何とか」
 心が折れかかっている時に声を掛けられるのが心地よいことに、その時初めて気が付いた。今までであれば、叱責されても、自分には目標があると思って、心が折れる前にやり過ごすことはできていた。しかし、この時のように心が折れてしまうほど罵声を浴びせられるのは初めてだったこともあって、かなり精神的にも弱っていた。
 その時に考えていたのは、
――このまま時間が止まって、永遠に叱責が続いたらどうしよう――
 という思いだった。
 その時の香澄の気持ちは、
――何とか自分がキレる前に、終わってほしい――
 という思いだった。
 つまりは、時間との闘いだったのだ。
 今までに、これほど時間が止まってしまったという気持ちになったことはなかった。それはまるで目の前のすべてが凍り付いてしまったようで、目の前に見えているのは、モノクロームであった。
――白と黒だけの世界――
 それは、ドラマなどの中では、回想シーンによく用いられることだった。
――私の中で、何か過去を思い起こすものがあったということかしら?
 叱責を受けていた香澄は、過去の回想をしていたような気がした。いつ頃のことを回想していたのか覚えていない。しかし、懐かしさを感じることもない回想というのは初めてで、
――やはり叱責がそれほど自分の心を串刺しにしていたのか?
 と思うほど、過ぎてしまった時間が、自分にとって今までにない特異なものであったことの証明のように感じた。
 だが、落ち着いてくると、香澄の頭の中に、懐かしいと思える光景が浮かんできた。それがさっき感じたことであるかどうかハッキリとは言えないが、想像していることはモノクロームだった。
――でも、想像している時に、色を感じるということもないような気がするわ――
 とも思えてきた。
 確かに、見た夢を覚えている時もあるが、夢の中で色を感じたという意識は一度もない。すべてがモノクロームであり、
――そういう意味では、過去の思い出というのは、必ずモノクロームで格納されているものではないか?
 と思えてきた。
――モノクロームには、冷たさしか感じない――
 という思いが香澄にはあった。
 しかもモノクロームの幻想の中では、時間の概念が感じられない。あっという間に過ぎてしまったかも知れないことでも、永遠に続く思い出のように感じられた。
 例えば、モノクロームの写真を見た時、
――凍り付いているのではないか?
 という思いが頭をよぎるが、次の瞬間、
――人間には判断できないほどゆっくりと動いているのかも知れない――
 と感じさせられた。
 目を逸らして、かなり時間が経ってからもう一度見ると、まったく動いていない。しかし、じっと見つめていると、本当に微妙に動いているように思えてならない時がある。目の錯覚には違いないのだろうが、それだけで納得できるものではなかった。
――凍り付いた時間の世界というのがどこかに存在していて、誰も知らない間に少しずつ動いている――
 そんな世界を感じた香澄は、そのことに気づいていないふりをしていた。
――もし、誰かにこの思いを知られると、自分が凍り付いた世界に入り込んでしまって、抜けられなくなってしまう――
 という妄想に駆られてしまったからだ。
 最初にモノクロームの凍り付いた世界を意識したのは、子供の頃だったように思う。
 舗装もされていない道に、雨がしとしと降り続いていた。長屋のようなところが見えるが、それぞれの家には庭があって、木でできた塀が張り巡らされている。垣根を作っている家もあるが、すべての家が綺麗に並んでいるわけでもなく、中には突出した部分がある家もあった。つまりは、家の前の道は、道でありながら、ハッキリとした直線の道ではなかったのだ。
 もちろん、香澄の記憶の中にそんな光景の街が存在しているなどありえないことだ。情景としては、昭和でいえば、三十年代の世界であり、今から半世紀以上前のことだった。自分の両親というよりも、祖父母が見ていた世界ではないだろうか。なぜそんな世界を思い浮かべたのか、香澄には理解できなかった。
 そんな光景を見たのは一度ではなかった。二度、三度と見た記憶が残っている。
――きっと夢で見たんだろうな――
 という思いがあったが、
――同じ夢を見たという記憶をそんなに覚えているものだろうか?
 とも感じた。
 どちらにしても、その光景を思い浮かべて、
――懐かしい――
 と感じたわけではない。
 実際に自分が見た夢ではないのだから、当たり前のことなのだろうが、香澄には、
――モノクロームの自分が実際には見たことのない世界――
 というイメージが残っていた。
――私が実際に感じている時間よりも数倍の時間を過ごしているのだとすれば、ありえることなんだけどな――
 と、さらにありえないことを考えてしまう。
 どちらかというと天邪鬼なところがある香澄は、
――余計なことを考えるなら、誰も考えないような発想を思い浮かべる――
 という余計な癖があった。
 そんな思いが香澄の中で、発想の堂々巡りを繰り返させる。そこに袋小路が存在していたのか分からないが、もし袋小路があったのだとすれば、モノクロームの記憶の中に出てきた舗装していない半世紀前の街のイメージが香澄の頭を掠めた。
――そのまま前に進んでいれば、抜け出すことのできない迷路に入り込んでしまったことに気づいたかも知れない――
 と感じた。
 迷路を抜けるにはどうしたらいいか、その時の香澄は分からないと思っていたが、今となってみれば、
作品名:一日百時間 作家名:森本晃次