一日百時間
一日が百時間だったらという発想はその時に出てきたのだ。
百時間というのは、夢の中の自分が夢を見ている自分に話した時間、今から思えば、たとえとしての百時間だったのかも知れない。
しかし、百時間という意識は思ったよりも香澄の中に大きく刻印されてしまった。鮮明に残ってしまった感覚は、漠然とした百時間だったので、時間が経つにつれて、他人事のようにも思えてきた。
そこで香澄が気になっている正孝が、香澄のまわりに異様な雰囲気を振りまき、香澄にとって、切っても切り離せない感覚に陥らせてしまったのだと、香澄に思い込ませようとした。
あくまでも記憶や意識の辻褄を合わせようとするものだと感じたが、それが香澄にとって都合のいい解釈であることも分かっている。
しかし、いくら都合のいいものであっても、発想しなければ先に進むことはない。
「奇抜な発想だから」
と言って、それ以上の発想をしなくなってしまえば、それこそ、
「ネガティブな発想だ」
と言わざる負えないだろう。
正孝は記憶の一部を失っていた。香澄はその話を聞いた時、最初は、
――やっぱり――
と感じたのだが、すぐにそれがどのあたりのことなのかということを考え始めると、お今度は、
――記憶の一部を失っているのは、私もなのかも知れない――
と感じるようになった。
香澄には、自分の記憶ではないと思えるような記憶が頭の中にあった。それは、
――どこかで見たことがあるような――
というデジャブのようなものを感じさせたが、
――ひょっとすると他の人の記憶が入り込んでしまっているのかも知れない――
と感じた。
そして、その分、自分の記憶も誰かのところにあるのではないかと思うと、それが正孝以外の誰かの中にあるような気がしてきた。
デジャブを感じる人は少なくない。二十歳を過ぎた人であれば、かなりの人が感じたことがあると答えるだろう。
誰も意識することができないだけで、皆自分の記憶の一部を他の人が持っていて、他の人の記憶が空いたその部分に入り込んでしまっているのではないかと思うと、なぜかしっくりくる香澄だった。
人の記憶が入り込んでいることを意識すると、自分の時間が人と違っていることを感じた。
――まさか、皆それぞれに一日の時間は違っているんじゃないだろうか?
という奇抜な発想も生まれてくる。
ただ、二十四時間という時間に変わりはない。その中で感じる配分が人によって違っている。
香澄のように、百時間などという発想は存在しない。もし、二十四時間以外の発想を持っている人がいるとすれば、正孝だけではないかと思えたのだ。
だから、
――本当に百時間を持っているのは自分ではなく、彼なのかも知れない――
という発想に至るのも無理もないことだった。
香澄は自分の中に正孝の記憶が潜在しているような気がしていた。正孝の行動や態度を見ていて、それがどこから来るのか、本人にも分からないようなことを分かっているように思えてならなかった。
本当は忠告してあげたいのだが、彼は香澄の前に姿を現すことはなかった。
――もしかして、彼の記憶の一部が私に潜在していることを彼が知って、それで私の前から姿を消したのでは?
とも考えたが、それだけでは説明のつかないことがあった。
香澄が正孝の欠落していると思われる記憶を持っていることを、もちろん香澄は知らない。香澄が恵美の存在を知るのは、正孝の記憶を通してであり、
「決して出会うことのない相手」
であり、自分たちは平行線の間柄なのだと思っていた。
正孝は、恵美のところにいた。正孝が病院を抜け出したのは、別に香澄に対して何かを意識したからではない。病気や入院に対して危惧したものであったわけでもなく、入院代は、正孝がいなくなってから一週間後に、地方の郵便局から書留として送られてきた。
その場所は温泉地として有名なところで、彼が湯治に訪れたことは一目瞭然だった。
警察に届けていたが、病院側とすれば入院費を払ってもらい、彼が無事であることを確認できれば、それ以上警察に捜査を依頼する必要はなくなった。
「彼は、ほとんど完治していましたから、これ以上の治療は別に必要ないんですよ」
ということで、彼の捜索願は取り下げられたのだ。
正孝が病院を抜け出した本当の理由は、恵美に会いたくなったからだった。衝動的に会いたくなったと言ってもいい。いきなり目の前に現れた正孝を見て、恵美は喜びもあったが、複雑な気持ちもあった。
自分の中では忘れた相手だった。
その思いがどうしても抜けなかった恵美は、せっかく元の鞘に収まったはずだったのに、夫との完全な修復は不可能だった。夫の方も一度疑念を抱いて、実際に不倫をしていた妻を許したつもりでも、本当は許していなかったのだ。
本人が許したつもりになっていたことも大きな問題だった。
――俺が許したつもりになったのは、自分を悲劇の主人公に仕立て上げたかったからなのかも知れない――
夫は猜疑心の強い人で、そのくせ、鈍感でもあった。妻が本当に浮気をしていることをずっと知らずにいて、気が付いた時には、嫉妬の渦の中にいた。
「なんだ、この抑えることのできない思いは」
それを嫉妬だということは分かっていたが、その中で自分を客観的に見る目が生まれてきた。妻に浮気をされた屈辱的な夫を自分が演じているということを、他人事としてしか見ることができなかったのだ。
恵美は、何とか許してもらおうとして、夫に追いすがる。夫は、そんな妻に対して感じた思いは、優越感だった。
――妻に浮気をされた屈辱的な自分なのに、優越感を感じるなんて、まったく違った意味でゾクゾクする気持ちが身体の中から込み上げてくる――
と思いながら、震える両手を見つめた。
その時の夫の顔は、きっとこの世のものとは思えない表情だったことだろう。
――屈辱的な思いをさせられたことへの制裁に、自分は妻を蹂躙できるんだ――
という思いが頭をもたげた。
それは今まで隠れていた彼のS性の目覚めであり、これから始まる異常性欲に包まれた生活の始まりを意味していた。
恵美は、決してMではなかった。夫から受ける蹂躙を、自分への罰として受け入れてきたが、我慢にも限界があった。
――逃れることのできない私はどうすればいいの?
恵美は、夫が浮気をしていたくせに、どうしてこんな態度が取れるのか不思議だった。
――自分のことは棚に上げて――
と思ったが、口に出せるわけではない。
逆に自分のことを棚に上げられる人だからこそ、自分を平気で悲劇の主人公に仕立て上げられ、妻に対して容赦のない異常性欲を満たす相手として扱うことができるのだろう。
完全に夫の優越は揺るぎないものになっていた。恵美は夫から逃げ出す勇気を持てないまま、次第に自分のことを、
――もうどうでもいいわ――
と諦めの境地から、いろいろな意味での感覚がマヒしてきていた。
そんな時に現れたのが正孝だった。