一日百時間
正孝が裸同然の状態で自分の前に現れた気がした。紆余曲折の後に別れることになってしまったが、彼はいまだに昔のままだった。裸同然というのは、時間が経っていても、昔の彼を思い出させることができるほどの力を有していたことだ。もっとも、恵美が正孝のことを忘れたことはなかった。しかし、夫に蹂躙されてきて、次第に感覚がマヒしてくるようになると、その思いも次第に怪しくなっていたのだった。
正孝との再会は、恵美の中で一縷の望みでもあった。
――やり直す数少ないチャンスなんだわ――
と感じた。
ただ、正孝を見ていると、まるで自分を見ているような気がした。彼は恵美の前では絶えず裸だった。身に纏うものは何もなく、完全に曝け出していたのだ。しかし、それでも彼の奥を見ることはできなかった。彼に結界を感じたからだ。
――こんな結界、前にはなかったと思ったけど――
と感じたが、知っていて気づかぬふりをしていたようにも思えてきた。
恵美にも実は結界があった。恵美の結界を正孝も気づいていたが、正孝自身、自分にも結界を感じていることで、恵美にあっても別に不思議はないと思っていたのだ。付き合い始めた時の彼の冷静な雰囲気は、結界の存在を知っていることからのものだったのだが、本人にもそのことはさすがに気づいていなかった。
二人は、恵美の夫の前から姿を消した。最初こそ、気が狂ったように冷静さを失っていた夫だったが、すぐに冷めてしまった。彼は異常性欲の持ち主であるというオーラは、冷静さを失った時に表に出るようだ。
M性のある女性は彼のそんなオーラにやられてしまう。オーラを発散させた時には、彼のまわりにたくさんの女性がやってくる。彼は自分の欲求を満足させてくれる女性さえいれば、相手は誰でもよかった。そんな男性だったことは、恵美にとってありがたいことだった。
あっという間に離婚が成立し、お互いに干渉しあうことはなくなった。
恵美は晴れて一人になれて、自分の思いはこれから正孝に捧げるつもりになっていた。正孝もそれを望んでいる。それが二人が湯治にやってきてから、三か月後のことだった。
「二人で新しい未来を作っていきましょう」
恵美は、本来ならポジティブに考える方だった。やっと自分の性格を表に出せる時が来たのだった。
恵美は、やっと自分を取り戻したと思った時だった。
――私の中に、誰か他の人の記憶があるようだわ――
と感じていた。
その意識が、
――正孝さんとは知り合うずっと前から知り合いだったような気がする――
という思いだった。
彼に対して、言い知れぬ不安が記憶の中にあった。そして、その記憶の部分だけ、ネガティブな性格であることも分かった。
――絶対に私の記憶ではない――
と感じたのは、このネガティブな性格が見えたからだった。
恵美にとって、その記憶の元になる人が誰なのか、当然知る由もない。それなのに、その意識が、
――正孝さんとはずっと前から知り合いだった――
ということを知らせていた。
正孝のことをあれこれ詮索するつもりはなかったが、この記憶だけはどうしても気になった。正孝が記憶の一部を失っているという話を自分でしていたが、恵美もひょっとすると自分も同じように記憶の欠落があるのではないかと思うようになっていた。
そんな時に感じた誰かの記憶、言わずと知れた香澄の記憶だったのだが、香澄の記憶はそのほとんどが正孝のことだった。
実は、中学時代の香澄の記憶の中で、正孝のことでどうしても繋がらない部分があった。それは彼が目の前からいなくなった時の記憶で、その記憶を持ってしまったのが恵美だったことと、正孝との出会いは偶然だったのだろうか?
いや、そんなことはない。
誰かの記憶を受け取り、自分の記憶は誰かが受け取り、そして記憶は一つの円を描いている。それは実に狭い範囲でのことで、デジャブがそれを証明してくれている。デジャブというのは、いろいろな発想を凌駕している。捉えどころのない発想も、デジャブが証明してくれることで繋がってくるものだ。
限られた狭い範囲での記憶の共有は、一日を繰り返している意識を生むことがあった。しかし、それは実際には同じ日を繰り返しているわけではなく、一日が百時間であるということを感じさせるものだった。
もちろん、実際にそんなことはあり得るわけはない。百時間という感覚を植え付けるだけだったのだ。
それはデジャブのように自分で解決できない発想を納得させるために必要な意識だった。そのことに気づいている人はなかなかいないが、一生のうちに一度は気づく時がある。
恵美と香澄は、早い段階で気づいてしまった。正孝だけは気づいていなかったが、その二人に囲まれて、そのうちに気づくだろう。
正孝が気づいていないことで、恵美と香澄は迷走を繰り返している。そして、二人は百時間の中にある四時間という中途半端な時間について気にしていた。
しかし、恵美は気づき始めていた。
――記憶の共有が限られた狭い範囲の中で繰り広げられていることが、四時間という中途半端な時間を形成し、それが二十四時間と、百時間という発想の間に歪を作らないのだ――
という発想である。
香澄と恵美が出会うことはないかも知れない。しかし、気持ちと記憶の上では繋がっている。正孝は二人の間に挟まれて、無意識に結界を作っていた。
恵美も香澄も二人が結界を作ってるわけではない。二人は、相手が結界を作っているつもりでいるが、実はそうではない。
「やっぱり、一日は二十四時間なんだわ」
と、香澄が思うと、恵美はその瞬間、百時間を意識してしまう。
――交わることのない平行線――
それが二人の関係だ。
だから、相手が感じたことを同じような感覚でもう一人が感じることはない。二人は同じ次元で存在することはできないのだ。
それを可能にしているのは正孝という存在だ。
では一体正孝というのは、どっちの世界の住人なのだろう?
ひょっとしてこの三人の中で一番神秘的なのは正孝で、彼が一番人間臭いと思っているが一番のイリュージョンは彼なのかも知れない。
真っ暗な空間で一人の人間の吐息が漏れていた。興奮しているのか、胸の鼓動は最高潮だった。空気の密度は最高の濃度に達していた。湿気をかなり帯びているのだが、暑いのか寒いのか、まったく感じなかった。
「一日って、何時間なの?」
正孝は、ぐったりしている恵美に話しかけた。
恵美はその返事に答えようとしない。
もう一度、正孝は虚空に向かって問いかける、
「一日って、何時間なの?」
そこに香澄の姿を感じることはなかった……。
( 完 )
2