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一日百時間

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 表に出してしまうと、きっと両親のように、月並みのセリフを語るしかなくなってしまう。それ以外の言葉を知らないと言ってもいい。一番嫌いな言葉を口にしなければいけないくらいなら、黙っておくしかないと思ったのだ。なるべく目立たないようにすることが、自分の存在意義だと思うのは、情けないと思いながらも、それしかない自分を責めることはできなかった。
 やるせないくせに自分を責めることができないという心境は、次第に快感に変わってきた。
 快感を最高にまで高めた上で、寸止めを食わされた心境とでもいうべきであろうか。やるせなさが堂々巡りを繰り返しているくせに、堂々巡りが同じ一日を長くしている感覚に似ていた。
――一日が百時間だったら――
 という思いを感じるようになったのも、そんな思いからだった。
 あれは小学三年生の頃だっただろうか。同じ一日なのに、長さにかなりの差を感じるようになった時期があった。普段と変わらない二十四時間の時もあれば、あっという間に過ぎてしまうこともあった。そして、本当に百時間あったのではないかと思うほど長く感じられた時もあり、そんな時は、
――同じ日を繰り返しているんじゃないかしら?
 と、次の日が同じ日に感じられたが、実際には同じ日だったことで、
――これは錯覚なんだわ――
 と思うようになった。
 同じ日を繰り返しているという感覚は、もっと大人になって感じたことがあった。
 その時には、小学三年生の時に感じた、同じ日だったのだという思いを忘れていたようだ。単純に同じ日を繰り返しているという思い以外には考えられないという思いを持っていて、その感覚が、
――大人になるにしたがって、平凡なことしか考えられないようになるんだわ――
 という思いを証明していることに、すぐには気づかなかった。
 平凡なことしか考えられないというよりも、視野が狭くなると言った方がいいのではないか。
「二十歳過ぎればただの人」
 という言葉があるが、まさしくその通りだった。
 大人になるにつれて、成長しているというよりも、一つの考えに凝り固まってしまっているというのが、香澄の考えだった。
 そういう意味で、子供の頃に感じた、
「大人になんかなりたくない」
 という思いは間違いではなかったと思っている。
 子供の頃にはたくさんの夢を見る。その中から一つに絞って夢を叶えようとするが、それは一つの成長に思える。しかし、たくさんの可能性の中から一つを絞るのだから、相当考える必要があるのだろう。
 しかし、実際には現実と照らし合わせての消去法がほとんどではないだろうか。
「自分に何ができるか?」
 ということを考えるということは、逆に言えば、
「自分にできることは何か?」
 ということであり、ひょっとすると、何もできないということで、すべての夢をあきらめることになるかも知れない。いや、ほとんどの人がそうなのではないだろうか。
 ただ、
「夢というのは叶えるためにあるんだろうけど、本当は叶えようとする気持ちが大切なのかも知れないな」
 という先生がいたが、大人になり、ナースになるという夢を叶えた香澄とすれば、その時の言葉が身に染みているような気がしていた。
 実際にはナースになることがゴールではなく、本当の意味では、そこが出発点なのだ。
――一つの夢を達成すれば、新たな夢が生まれてくるのは必然――
 という当たり前のことを忘れていた。
 忘れていたというよりも意識していて、考えないようにしていたのかも知れないとも感じたことがあった。しかし、それを認めてしまうと、夢に向かって頑張っていた自分を否定することになりそうでそれだけはできないと思った。
 香澄がナースを目指そうとした理由の一つは、正孝の病を知った時だったが、本当はそれだけではなかったのかも知れない。
 夢を持たなければいけないという意識は漠然と持っていて、自分の中で模索していた時期でもあったのだが、なかなか見つかるものではなかった。
 その頃までは、さほどネガティブな考えを持っていたわけではない香澄だったが、その代わり、反抗心だけは大きかった。
 何に対しての反抗かと言えば、言わずと知れた両親に対してだった。
 当たり前のことを当たり前にしか言わない両親、いつも判で押したような言葉を繰り返すだけで、説得力がなくなることを本当に分かっているのだろうか?
 そんなことを考えていると、両親は自分たちが上から目線で見ることしかできない人なんだと思うようになった。つまりは上の人には何ら反抗することはできないくせに少し下だと思うと、ここぞとばかりに攻撃する。
「弱者に強く、強者には弱い」
 本当に最低の人間だった。
 香澄はそんな両親を、
――反面教師――
 として見ていた。
 そうでもしなければ、親だとは認めたくないという思いがあり、親というものは自分に対して優越を持っているものではないとしか思えなかったのだ。
 親に対しての反面教師を感じたことで、香澄は自分がナースになるという意識が芽生えた気がした。両親への思いのどこからナースという発想が出てきたのか自分でも分からなかったが、夢を持つということに両親の存在が不可欠であったことだけは自覚していた。夢というものが達成できるかできないか、問題はそれよりも、プロセスにあるんだということを自覚したこと自体が、両親を反面教師として見ていた証拠ではないかと感じるのだった。
 香澄は夢を見ることが、
「本当は、目が覚める瞬間のどこかで一瞬見るものらしい」
 という話を聞いたことがあった。
 最初は信じられない思いだったが、考えてみれば、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだということと一緒に考えると、その話にも一理あるように感じた。「まんざら信憑性のないことではないわね」
 と思うと、寝て見る夢についても考え直さなければいけないような気がしてきた。
 そもそも、起きている時に自分が達成しようと思うことを夢というのに対して、眠っていて見る出来事も同じ「夢」という言葉を使うのだろう? 別に同じでなければいけない理由があるというのだろうか?
 ややこしいという思いが先に来てしまうと、その理由に辿り着くことは不可能だと思えたが、ややこしいという思いを抱かずにこの二つのことを考えようとするのは、まず最初から間違っているような気もした。
 考え方の中に、ジレンマが存在しているのである。
 それを理解しようとする時、香澄は、
――一日が百時間だったら――
 という思いが頭を掠めるのを感じた。
 寝て見る夢というのが、現実の世界でいう一瞬の出来事だという発想を聞かなければ、一日が百時間だなどという発想も生まれるはずがなかっただろう。
 確かに寝て見る夢の内容には、起きている時に感じる時系列とは別のものが存在しているような気がする。
 思い立った順番がそのまま時系列になるのだが、それでも夢の世界ではまったく矛盾を感じない。現実世界で発想する内容も、頭の中で巡っている時に決して時系列ではないだろう。それでも、
「過去のことを思い出している」
 という記憶の奥から引っ張り出したという意識があるから、時系列を正常に感じることができるのだ。
作品名:一日百時間 作家名:森本晃次