一日百時間
――彼が抱いているのは、私であって私ではないんだ――
この思いは、恵美に屈辱感を感じさせた。
もし、相手が別のオンナなら、嫉妬心を抱くことで、自分の自尊心を奮い立たせることもできるが、相手が自分ということになれば、嫉妬心を掻き立てることも自尊心を奮い立たせることもない。
――まるで真綿で首を絞められているような気分だわ――
こんなに気持ちの悪いことはなかった。
恵美は、もう迷うことはなかった。
――この人から一刻も早く離れなければ、私もダメになってしまう――
という衝動に駆られていた。
恵美は、正孝から離れることを決心すると、正孝は恵美の前から姿を消した。それは恵美にとっても驚きであり、
「向こうからいなくなってくれて助かったわ」
という思いとは裏腹に、何かよからぬ胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
だが、恵美の中で、
――この人とは、もう二度と出会うことはない――
という思いが強いのもあった。その思いがあるだけに、
――でも、もし再会したらどんな顔をすればいいのかしら?
という不安も消えていない。
スッキリしないまでも、会って別れを告げていないことが心残りだった。なぜなら、今回の別れに対して、まったく自分で納得できていないからだった。
彼と別れることになったが、冷静になってもう一度考えてみると、
――あの人の魅力が色褪せてしまったわけではないんだわ――
という思いがあった。
彼の魅力を今となっては過去の人になってしまった相手に感じるということは難しかった。もし再会したとして、元々感じていた彼の魅力がなんだったのか、思い出すことができないと思ったからだ。
恵美と別れてから、いや、恵美の前から姿を消した正孝がどうなったのか、正孝本人も覚えていない。
「記憶の一部が欠落している」
というのは、この部分だったのだ。
今の正孝なら本当は恵美とのことも記憶から消してしまいたいことだったのかも知れないが、消すことはできなかった。本人の意志とは裏腹に、消してはいけないという思いがどこかに存在していたのかも知れない。それが恵美の本能から感じたことなのか、それとも潜在意識がそうさせたのか分からない。恵美とのことが頭の中から消えない正孝を、香澄は分かっていなかった。
――彼の中には、忘れられない誰かがいる――
という意識はあったが、それがどんな人なのか、想像もできない香澄だったのだ。
正孝の手首にある躊躇い傷のいくつかは、この時についたもののようだ。正孝はその時の記憶はあるが、自分がどんな精神状態だったのかを思い出すことはできない。
ただ感じていることとしては、
――自分が中途半端な気持ちの中で恵美と接したことが、手首を切って自殺しようなどと考えた原因だった――
ということは自覚していた。
――自殺するということに対して、怖いと感じたことはない――
と思っていて、さらに、
――本当に怖いのは、自殺をした時のシチュエーションは鮮明に覚えているのに、その時どうして自殺を企てたのかというような精神的なことを思い出すことができないということだ――
と思っていた。
正孝が自殺を試みたことで、二人の間は本当に終わってしまった。
中途半端だったには正孝だけではない。恵美の中にも中途半端な気持ちは燻っていて、心のどこかで、
――あの人がいなくなってくれればいいのに――
と感じていたことも事実だった。
その思いがトラウマになるほど、恵美の心に燻っていた。正孝は一命を取り留めたが、
――私が余計なことさえ考えなければ、あの人は死のうなんて考えることはなかったんだわ――
と感じていた。
このまま正孝のそばにいることはできないと判断した恵美は、正孝の前から姿を消すことを決心した。男に比べて女性の方が、思い立ったら迷うことなく行動するもののようで、後ろを振り向くことはなかった。
恵美が思い立ったことで、それまで中途半端な気持ちだった正孝も、思い切ることができた。恵美と別れる決意を固め、二人はそれぞれに覚悟を持って別れることになった。
紆余曲折を繰り返しながら、最後はお互いに覚悟を決めることができた。最悪な中でも別れ方としては、不幸中の幸いだったのかも知れない。
恵美は元の鞘に収まり、何とか夫婦関係も修復できたようだが、正孝が立ち直るまでには少し時間が掛かっただろう。彼の記憶が失われた原因の一つに、恵美とのことが大きく影響していた。
香澄の前に現れた正孝は、恵美のことをほとんど意識していなかった。別れに際して、かなり精神的に無理をしたのだろうが、完全に忘れることができなかったのは、当たり前のことだろう。
それでも、彼は立ち直ろうとした態度は健気と言えるだろう。
「まだまだ若いのだから、いくらでもやり直しができる」
というセリフは、あまりにも当たり前のこと過ぎて、言葉に重みは感じられない。その思いは、正孝も香澄も同じだった。
特に月並みなセリフに対して、何ら感じないのは香澄の方だった。
「こんなセリフ、説得力も何も感じないわ」
つまりは、
「そんなことは自分にだって分かっている。分かっていることを改まって言われても、何の感動もしないし、特にどや顔で言われるなど、嫌悪しか感じない」
と思っていたのだ。
香澄の父親は、特に月並みなセリフが多かった。母親も父親に習って、同じようなことしか言わない。しかも、父親に従属しているかのように、
「お父さんになんて言われるか」
というように、自分の意見よりも、父親の言葉に香澄がビビるとでも思っていたようだ。
実際には、香澄というよりも父親の言葉に一番ビビっていたのは母親だった。香澄の前では二人は言い争いもしていないようだが、父親が見る目は、完全に上から目線で、逆らうことは許されない。まるで封建的な考え方に、香澄は子供心に家庭に対して疑問以外の何ものも抱いていなかった。
その頃、香澄は、
「一日が百時間に感じられる」
と思うようになっていた。
なぜそんなことを思ったのかというと、
――いずれやってくるであろう大人になんかなりたくない――
という思いからだった。
一日百時間もあれば、大人になるまでにかなり時間が掛かる。ただ大人になってからのことを考えていたわけではないので、大人になってからも百時間だったら、嫌な時間が長く続くという発想はその時にはなかった。ただ漠然と、
――大人になんかなりたくない――
と感じていたのだ。
それは、もちろん両親を見ていたからである。
大人というのが皆あんな大人ばかりではないと思いながらも、自分から見ての大人というのは、親であり、学校の先生だった。
元々、学校の先生は当然のことを当然のごとくいうだけだった。公務員なので当たり前なのだが、教育指針に乗っ取って、どの子供に差別することもなく同じように教育するのが基本であれば、それも当然のことだろう。
まわりの同級生の中で、大人にあからさまに反抗している人を見ていたが、横目に見るだけで、香澄は思っていることを心の内に隠し持って、あまり自分を表に出すことはなかった。