一日百時間
いつもただ遠くから見つめているだけの女の子をよく青春物の恋愛ドラマで見かけるが、まさしく香澄はそんな女の子だったのだ。
今でも彼のことを好きだと思っている香澄は、
「昔の俺ってどうだったんだい?」
と聞かれても、遠くから見ていた印象しか言葉にできるわけはなかった。
もちろん、ウソをつくわけにはいかないし、答えられないことで、
「なんだ。その程度の仲だったんだ」
という言葉が彼の口から出てくるのが怖かった。
本当は彼の担当ナースになって嬉しいという思いがありながら、心の奥では不安に苛まれる自分もいた。
そして今では、
――もう、夢の中でしか会うことはできないんだ――
と思うようになっていた。
――自分の夢なんだから、自分の都合のいい彼でいてほしい――
と思ったが、実際には逆だった。
香澄の潜在意識は、やはり彼に対しては不安がどうしても頭にきてしまう。不安を払拭することはできるかも知れないが、その思いを込めてしまうと、夢に出てきた正孝は、香澄の知っている正孝ではなくなってしまうだろう。
香澄はそんなジレンマを感じながら、じっと耐えていた。
――これは夢なんだ――
と感じたのも、彼と現実世界で会う勇気がなくなってしまったからなのかも知れない。
そういう意味では彼がいなくなったのは、香澄にとって好都合だったと言えなくもないだろう。いや、それが本心に違いない。
「香澄ちゃんは、僕のことなら何でも知っているよね?」
香澄は身構えた。
――そら来た――
と思ったが、これが夢であることも、確定したような気がした。
なぜなら、彼が香澄のことを、
「香澄ちゃん」
などという言い方をするはずがなかったからだ。
「工藤さん」
という苗字で呼んでくれるのが正孝だと思っていたからだ。
夢の中の正孝は、明らかに自分の知っている正孝ではなかった。
香澄が答えないでいると、正孝は、ニコニコした笑顔を浮かべながら、香澄に顔を近づけてきた。
――私は、もう彼の表情を、目の前でしている顔以外、思い出すことができない――
と感じた。
香澄も自分が、夢の中で、まったく表情を変えていないのに気づいていた。ニコニコしているのか、それとも怯えの表情なのか分からない。
「顔の表情は、気持ちを表している」
と言われるが、読んで字のごとし、
「おもてに出たなさけ。つまりは表情だ」
ということなのだろう。
その時の香澄は、夢の中ということもあってか、自分が何を考えているのか分からなかった。その気持ちを顔が表しているはずだと思っていたので、表情がどんな感じなのか、想像もつかなかった。
何しろ、夢の中では感情以外の肉体的な感覚はない。痛いや痒いなど、まったく感じないのだ。
だから、どんな表情をしているのか分からない。もし、それを分かるとすれば、夢の中にもう一人の自分が出てきた時だろう。
――そういえば、一番怖い夢を見たのは、もうひとりの自分が出てきた夢だったわ――
ということを思い出したが、その感覚がどこから来るのか、今なら分かる気がしてきた。
――自分の表情を感じてしまったんだ――
ということは、感じたくない自分のその時の感情を見てしまったからだ。その時に微笑んでいたり、怒りの形相を浮かべていたとしても、どんな顔をしていようが、香澄はこれ以上なく恐ろしいものを見たと感じることだろう。
しかも、それが自分の顔なのだ。これほど怖い夢もないと感じるのも無理もないことだろう。
その時の彼の表情は、まるで自分の顔を見た時のような驚愕を感じさせるものだった。
――そんなことってないわ――
それはまるで彼が、自分の夢に土足で入ってきたような気持ちだった。そこにいるのは夢の世界の彼ではなく、実際の彼だという思いがあったのは、リアルに感情を捉えていたからだった。
香澄は、彼の表情が自分を見ているのではなく、彼本人の表情を感じているようで不気味だったのだ。
香澄が見ている彼のニコニコした表情。本当はまったく違った心境だったのかも知れない。その気持ちを表したのが、その時の香澄の表情だとすると、
――今日ほど、もう一人の自分が出てきてほしいと思ったことはなかったわ――
と感じた。
もう一人の自分が助けてくれると思ったからだ。
――ひょっとすると、もう一人の自分を怖がっているけど、本当は守護霊のようなものなのかも知れないわ――
と感じた。
今まで怖がっていたことを後悔したほどである。
怖いと思っているはずの夢なのに、香澄は正孝に話しかけた。それも自分の感情をぶつけるように出た言葉に、自分でビックリしている香澄だった。
「あなた、今まで一体どこにいたんですか? 皆心配しているんですよ」
感情がこもっているわりには、言葉の内容は自分の気持ちからではない。心配しているのは皆であり、自分は二の次だと言っているのだ。本心は一番心配していたのが自分であるということを知ってもらいたいのだ。それなのに、心にもないことを言ってしまった自分にビックリして、次第に腹が立ってきた。
「どこにいたんだって、僕は自分の家に少し帰っていただけだよ。許可は取っているはずだけど?」
「何言っているのよ。あなたがいなくなったって、病院では大騒ぎよ。警察にも届けたりして、それでもまったく行方が分からなくなっていて、大変だったのよ」
「三日ほど家にいただけじゃないか。警察に届けたって言ってたけど、僕の家に来てくれればいたはずなんだけど?」
彼の落ち着いた雰囲気からは、とてもウソをついているようには思えない。香澄も彼の言葉を聞いて、彼を疑う気持ちは失せてきた。それなのに、事実とはまったく違っていることで、香澄は今度は自分が信じられなくなってきた。
「三日? あなたがいなくなってから、一か月は経つのよ。しかも、警察に届けた時に、当然あなたの自宅も行ってみたらしいんだけど、誰もいなかったっていう話だったわ」
「そんなことはないだろう。だって僕がいなくても、母親がいたはずだよ」
「いいえ、誰もいなかったって聞いたわ。もちろん、訪れたのは一度だけではなく、何度も行ったらしいんだけど、それでも誰もいなかったって言ってたわ。一体、どういうことなの?」
香澄はまるでキツネにつままれたような気持ちだった。
正孝の表情を見る限り、それほど驚いたような様子はない。一人取り乱している香澄だったが、正孝の表情を見ていると、香澄も次第に冷静さを取り戻してきた。
「香澄ちゃんは、僕のことなら何でも知っているよね?」
さっき聞いた言葉だったが、遠い記憶を思い出したような感覚だった。
それは香澄が正孝のことなら何でも知りたいと思っている時期が中学時代にあったからだ。
香澄が正孝と再会して、一番不安に感じたのは、二人が会っていなかった期間の長さだった。中学時代から考えると、そろそろ十五年が経とうかという時期だったが、その間に香澄は自分が変わったと思っていた。
ただ、性格的にはまったく変わっていないはずだ。もっとも、変わっていないと思えるのは、正孝と会わなくなってからだ。今の性格の形成に、少なからず正孝の存在があったからだ。