一日百時間
人間だけが、他の動物とは別格なのだと思ってもいた。
――他の動物は、どんな夢を見るんだろう?
弱肉強食の世界の中にいる動物の中には、夢など見ている場合ではない動物もいるかも知れないが、そう思うと夢を見ることのできる動物は、幸せなのかも知れないと感じていた。
香澄は、正孝が病院からいなくなった日のことを思い出していた。
あの日は、別に何もなかったはずである。いつものように定期的な時間に検診や検温を行い、検査もそれほど長い時間ではなかった。同じ病室の患者さんの様子にも何ら変わりはなかった。香澄もその日は、いつもと同じように患者さんの前では真面目を基本に、話によってはおどけて見せたりしていた。患者もそんな香澄をいつものようにからかいながら、時間だけが過ぎていった。
正孝が病院を抜け出したとすれば、夜だったに違いない。病院の消灯は早く、午後九時には見舞いも終わる。午後十時を回れば、病院では真夜中になっていく。起きて巡回しているナースも、慣れているとはいいながら、静寂の中で懐中電灯を片手の見回りは、気持ち悪いものがあった。
見回りと言っても定期的な時間であり、病室から抜け出すことはできても、表に出るには、管理人室を通らなければならない。
しかし、ここは救急病院も兼ねているので、深夜の出入り口は基本的に開いている。抜け出すことは、その気になればいくらでもできたのだ。
「彼はどうしていなくなったのかしら?」
ナースはいろいろな噂を立てていた。
「お金がないのかも知れないわ」
という意見や、
「何か問題があって、病院にいられなくなったのかしらね」
あるいは、
「見つかってはいけない誰かに見つかってしまった?」
最後の意見は、まるで彼が何かの犯罪に巻き込まれているかのような話で、それこそミステリアスな話だった。
どれも信憑性に欠けるが、彼がいなくなったのは事実。どこかに原因があるはずなのだが、想像の域を超えることはできない。香澄は、
「想定外のことが彼に起こったに違いない」
と思っていた。
彼が記憶の一部を失っているというのも気になるところだ。もっとも彼が記憶の一部を失っているということは、一部の人しか知らない。知らなければ普通に記憶があるものだと感じるほど、普通の雰囲気だったからだ。
だが、彼が病院から突如いなくなったとすれば話は別だ。警察には彼が記憶の一部を失っていることを話したが、病院では相変わらず知っているのは一部の人たちだけだった。
「いまさらいなくなった人のことをあれこれ話しても仕方がない」
というのが、医師団と病院スタッフの考えのようだが、もう一つ気になるのは、腫瘍の方だった。
今すぐに悪化するということはないだろうが、無理なことをすれば、悪化しないとも限らない。彼は自分の身体に爆弾を抱えていることを分かっていて、それでも敢えていなくなったのだ。
警察の方では、彼が誰かに唆されて、病院から抜け出したのではないかという考えもあった。特に記憶が欠落している相手に、過去のことを話せば、動揺した本人としては、病院を抜け出したくなるのも無理もないことだ。彼が今どこにいるのかも心配だが、もし彼の逃走を後押しした人がいて、その人たちが本当に信用できるのかどうかが、香澄には心配だった。
香澄が彼の夢を見たのは、そんな時だった。
それは香澄が、
「夢を見ているという夢を見た」
という日から少し後のことだった。
それ以来、夢らしい夢は見たことがなかった。
――このまま私は夢を見ることがなくなったりしないだろうか?
という思いがよぎった。
この場合の、
――夢を見ることがなくなる――
というのは、実際には夢を見ていて、目が覚めるにしたがって忘れてしまうということではなく、本当に夢自体を見なくなるということであった。
夢というものが潜在意識が見せるものだということに、この間の夢で疑問を感じるようになった香澄は、そう考えることで、夢を見ることができなくなるかも知れないと思うようになっていた。
事実、目が覚めてから、夢を見ていたという意識がまったくない。むしろ、現実世界の方が夢のような気がしてくるくらいだったからだ。
あの夢を見てからというもの、香澄は現実世界が次第に他人事のように思えてきたのだった。
毎日が規則正しく時間に支配されているという感覚に陥り、時間という枠から外れることは絶対にできないのだと、再認識した気がした。
元々、時間という枠から逃れることなどできないことは、最初から分かっていたはずなのだが、それを当たり前のことのように思い、まるで路傍の石のように、
――あって当然――
という意識を持っていた。
心臓の鼓動も同じである。
本人は意識も何もしていないのに、心臓は止まることはない。夢も同じように意識していないはずなのに、勝手に寝ていて見せられて、目が覚めるにしたがって、勝手に忘れていくのである。
――それなら、最初から見せなければいいのに――
と思うが、それでも見せられるのは、
――夢を見ることに何か必然的な理由が存在しているからに違いない――
と感じた。
その理由は、分かってはいけないものなのだろう。ひょっとすると、考えることすらいけないことなのかも知れない。そう考えると、そんな余計な夢を見てしまった自分が、これから夢を見ることができなくなるかも知れないと感じるのも、無理もないことだと言えないだろうか。
そんな時だった。急に彼の夢を見たのだ。
正孝が出てきた時点で、
――これは夢なんだ――
と香澄は感じた。
彼が実際に自分の目の前に二度と姿を現すことはないという思いが香澄の頭の中にはあった。もちろん、何の根拠もないものなのだが、香澄は頑なに信じていた。
だから、今見ているものが夢だと直感したのだが、その時には、自分が夢を見ることは二度とないかも知れないという思いを感じていることを忘れていた。
いや、忘れていたというよりも、意識の奥に封印していたのだ。わざと意識しないようにしていることを知っているのは、本当は香澄本人にしか分からないことのはずなのに……。
「君が中学時代の同級生だったなんて、気が付かなかったな」
と彼が言ったが、香澄は彼に自分が中学時代の同級生だったということを話していなかった。
それはわざとであり、話をすることが最初は恥ずかしかったという思いと、もし、彼に話をしてしまうと、いろいろ聞かれるのが辛かったというのもあった。
香澄は彼にずっと好意を持っていた。それを知られるのが恥ずかしいという思いが最初だったのだが、彼が記憶を失っているということを先生に聞かされて、
――やっぱり、同級生であると言わなくてよかった――
と感じた。
それは彼にあれこれ聞かれるのが辛かったからだ。
香澄はその頃から性格的にはネガティブで、しかも暗かった。いつも何かを不安に思っていて、彼のことを気になっている自分を絶えず不安だと思っていたのだ。
そのため、
――本当はいろいろ知りたいのに、知るのが怖い――
とも感じていた。
つまり、彼のことを知っているつもりで、本当は何も知らないのだ。