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一日百時間

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 しかし、そのことが自分の中で逃げに繋がっているということを分かっていながら、認めたくないと思わせたのは、ナースになってからのことだった。自分がネガティブな考えをする人間だという自覚を持ち始めた頃だったが、入院患者から言われたことがあった。
「看護婦さんは、何か楽しいことをしていますか?」
 その人は初老の男性で、病気の程度は、それほど悪いわけではなかった。
 元々は検査的な入院だったのだが、その時に見つかった腫瘍の切除を、せっかくだからこの機会にしておこうということで、入院が少し伸びていたのだ。
「最初は、すぐに退院するものだと思っていたので、腫瘍が見つかって、切除するかどうか医者から聞かれた時、結構迷ったけど、せっかくだからって思ったんだよね」
「はい、そう聞いています」
「それでね。二、三日で退院するつもりだったから、それからの入院生活がどうにもウソっぽく感じられるようになったんだよ。本当なら退院して、仕事復帰もしているはずだからね」
「これを機会に、ゆっくりされたらいいと思いますよ」
 香澄は片手間でその人の話を聞いていたせいか、どこか上の空で話を聞いてしまっていた。本当なら、かなり失礼なことであるが、ナースの仕事をしている最中なので、仕方ないところだった。
 彼もそのあたりはわきまえていて、仕事の邪魔をいないように、さりげなく話をしていた。
「でね、入院しているうちに一日一日が、まるで同じ日のように思えてきたんだよ。毎日ベッドの上で何もすることがなくて、テレビを見たりしている程度だろう。見舞いに来る人もいないし」
 確かに、この人を見舞いに来た人に出会ったことはなかった。普通なら家族か会社の人が訪れてもいいはずだ。
 彼は続けた。
「私は、妻には先立たれ、子供たちも独立したので、一人きりなんだよ。最初は検査のための数日間の入院だけのはずだったので、誰にも言っていなかったんだけどね」
「会社の方は?」
「私の部署は、私一人がいなくても、別に問題はないからね。入院が延びたと言えば、そうですかと言われただけだったよ」
 香澄は、彼の立場になって想像してみた。あまりにも寂しくて、背筋に冷たいものを感じた。
――こんな風にはなりたくない――
 と、まるで他人事のように感じたが、今のまま行けば、自分も同じ運命かも知れないと、急に感じ、それが背筋を冷たくしたのだろう。
「私がついてますよ」
 思わず、口からそんな言葉が漏れた。
――相手に同情したのかしら?
 たとえ同情したとしても、いきなりそんな言葉を口走るなど、今までの香澄には想像できないことだった。
 ただ、もしそれが同情だったとすれば、すぐに我に返り、そんな言葉を口にした自分が恥ずかしくて、顔を真っ赤にさせているに違いない。しかし、その時の香澄は、自分の口から出てしまった言葉を否定する気もないし、恥ずかしく感じることもなかった。
「僕が今看護婦さんに話しかけたのは、僕が今感じていることを看護婦さんに聞いてもらいたいと思ったからなんだ」
「えっ?」
 香澄は少し驚いて、彼の顔を直視した。鏡が目の前にあれば、きっと今の彼の目の開き方と同じくらい広く、目が開いているかも知れない。
「さっきも言ったように、毎日が平凡に過ぎていくと、その日がいつだったのかということすら分からなくなることってあるでしょう? 例えば、何かがあったとして、それが昨日のことだったのか、おとといのことだったのか、ひょっとすると今日のことでも分からないかも知れない」
 香澄も、かつてそんな思いをしたことがあった。たぶん、高校時代だったように思う。
高校に入学してからの三年間のほとんどは、看護学校に入学するための勉強に時間を費やしていたと思う。
 まわりの友達は、恋やスポーツにと、香澄から見れば、無駄なエネルギーの消費をしているように思えた。そのおかげで、自分は勉強に集中でき、まわりの人たちに対して、先に進むことができると思ったのだ。
 だが、勉強だけをしていると、そのうちに毎日が平凡でしかなくなってきて、勉強は前に進んでいるのだから、確実に自分がステップアップできているという自覚があるのに、何か大切なものを忘れていっているように思えてならなかった。
 それが一体何なのか想像もつかなかったが、それが、自分の性格にネガティブな部分があるということを自覚させることになろうとは、思ってもいなかった。
 高校を卒業するまでに、自分がネガティブであるということは分かっていたが、それが今に始まったことなのか、以前からのものなのかが分からなかった。
――そんなことにこだわること自体、ネガティブな証拠だ――
 と思ってもみたが、元凶がどこにあるのかを知りたいと思うのも仕方のないことだ。だから自分の中でこだわっていたのだ。
 高校時代の三年間、勉強は進んだが、毎日が充実していたかと言われれば疑問が残る。
――自己満足で終わってしまったのではないだろうか?
 と感じたが、考えれば考えるほど、その思いが確かなものになってきていた。
 老人の話を聞きながらそんなことを思っていたが、彼も今、似たようなことを感じているのだろうか?
「その感覚って、今までにもあったんですか?」
 と香澄は聞いてみた。
「あったような気もするけど、曖昧なんだ。曖昧だってことは、なかったんじゃないかって今では思っているけどね」
 この辺りが香澄と考え方の違うところだった。
 香澄の場合は、曖昧な考えが頭に浮かべば、まずはそれを信じてみるところから始める。初めては見るが、考えれば考えるほど、信じられなくなってきて、結局は信じられない方に考えが向いていることが多かった。
――これこそ、頭の中が減点法になっているじゃないのかしら?
 ネガティブな考えの一番の原因は、この減点法にあるのではないかと、最近香澄は感じるようになった。そういう意味では、この老人もネガティブな考えをする人なのかも知れないと思うようになり、香澄が話を聞いてあげることが一番彼の気持ちを分かってあげられると思ったのだ。
 しかし、考え方が偏ってしまうという危惧も拭い去ることはできない。適当ではいけないのだろうが、あまり思い入れを激しくするのはまずいと思っていた。
「毎日が平凡なのは、本当に悪いことなんでしょうか?」
 というと、彼は少し訝しげな表情になり、
「というと?」
 と聞き返してきた。
「毎日にいろいろな変化を望んでいる人もいますけど、私は、平凡に暮らすことが一番難しいのではないかと思っているんですよ。悪いことではないと思いますよ」
「僕は別に平凡に暮らすことが悪いことだとは言っていないんだよ。ただ、毎日に変化がないと、自分が生きているということを感じられなくなりそうな気もしているんだ」
「でも、毎日を普通に過ごしていて、自分が生きているんだって自覚をいちいち感じたりしますか?」
「それはいちいち感じることはないよ。でも、ふとしたことで感じることがあるんだ。その時に、いつもなら自分が生きていると実感できるはずのものを感じているのに、急に感じられなくなった時、どんな風に感じるか、それが僕には不安なんだよ」
作品名:一日百時間 作家名:森本晃次