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一日百時間

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 と言われて、最初に話し始めた彼女はニコニコしながらも、相手の目をじっと見つめていて、含み笑いに見えた。相手もそれが分かったのか、それ以上何も言わなかったのだ。
 しかし、香澄の中ではそのことが気になってしまった。まさか、彼女が香澄が聞いているのを見越して、急にそんな話をしたとは考えにくいが、元々しなくてもいいような話題提供だったと思うと、香澄を意識していたとは一概に否定もできないというものだ。
 香澄が睡魔に襲われたのはちょうどその時だった。
――このままでは眠ってしまう――
 と感じ、何とか気持ちを持たせようと必死になっていたが、襲ってくる睡魔に勝てそうにはなかった。
 心地よさに身を任せるようにしながら椅子にもたれていると、意識が次第に遠くなってくるのを感じた。
 まわりの喧騒とした音が次第に遠ざかっていく。それが合図だったのか、香澄はそのまま眠ってしまったようだ。
――私は夢を見ているのかしら?
 確かに睡魔に襲われ、眠ってしまったはずだった。
 現実世界と同じ場所の夢を見るというのは、毎日夜寝る自分の部屋であればありえることだが、職場の食堂で起こることだとは思ってもみなかった。夢の中での自分が何を意識しているのか分からなかったが、同じ場所でも明らかに違っているのは、眠りに就く時、最後に感じた消え行く部屋の喧騒とした雰囲気が、夢の中ではまったく感じられない。
 食堂にいるのは香澄一人であり、まわりには誰もいなかった。それだけでも、自分が夢の中にいるということが分かったと言ってもいい。
「大丈夫なのかしら?」
 香澄は、声に出して言ってみた。
 どうせ誰もいないのだから、聞かれることもないのだが、その時に声に出してみたのは、本当に自分が声を発することができるかということを確かめたかったからだった。
「やっぱり、声になっていない」
 喧騒としているわけではなく、誰もいない空間で感じる騒然とした自然な音の中に、自分の発したはずの声が吸い込まれてしまったかのように思えた。
 声が響けば、そこは夢の世界ではないと思ったのだが、どうやら、その時に見ていた香澄の夢は、
「何も起こらない世界」
 だったようである。
 そして、
「誰もいない世界。騒然とした空気が自然に流れていて、空気が流れているはずなのに、風らしきものは一切感じない世界」
 そんな感覚を持っていたのだ。
 もう一つ言えることがあった。これは夢の世界では共通していることなのかも知れないが、
「この空間だけに時間が流れていて、夢の世界としては、時間が流れているわけではない」
 というものだった。
 空気が流れているのに、風がないという発想と類似のものである。香澄は吸い込まれそうになっている騒然とした雰囲気に、自分の時間が支配されていて、本当は見えないだけで同じ空間にいるはずの人を意識できないのは、
「それぞれの夢の中で、違った長さの時間が流れているからだ」
 と思っていた。
 もし同じ時間を一瞬でも共有できれば、そこにいる人を意識できるのかも知れない。夢の世界に偶然など存在しないと思っていたが、信じてみたいと思ったのは、
――一人だと思っている世界に誰かの存在を感じてみたい――
 と、感じたからだった。
 香澄が時々言い知れぬ睡魔に襲われ、そして落ち込んでしまった夢の世界では、いつも同じことを考えている。
 なぜなら、夢のシチュエーションがいつも同じで、夢から覚めると考えることは、
――夢の世界でも違う時間が存在するのなら、現実世界にも存在するかも知れない――
 というもので、学生時代に読んだSF小説に載っていた「パラレルワールド」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
「パラレルワールド」というのは、
「人には、無限の可能性が存在していて、次の瞬間自分に起こっているのはその一部にしか過ぎない。末広がりのように四方八方に広がっていく世界も存在するのではないだろうか? そんな世界がネズミ算式に増えていくと、可能性は本当に限りなく無限に近づいてしまう」
 香澄は、それを半分信じているが、半分は信じられないと思っている。信じられないということも疑わしいというわけではなく、疑う以前に、信じようと思わないのだ。
「何かを疑うということは、一度は信じてみて、そのことを考えた上で、結局信じられないという結論を得た時に考えることだ」
 と思っていた。
 香澄は寝ている時間のことを考えていた。
 眠りから覚めると、数時間経っているが、夢を見ていない時も夢を見たと思っている時も、その時間に変わりはない。
――夢というのは、本当は毎回見ていて、眠りから覚めてから、覚えているか覚えていないかだというだけのことではないか?
 と思ったこともあった。
 しかし、今ではハッキリと夢を見ていない眠りが存在しているということを感じることができる。そんな時は、決まって目覚めがよかったのだ。
 ただ、目覚めがいいというのは、すぐに目が覚めるという意味ではなかった。むしろ、目覚めの心地よさをしばらくの間味わっていたいという思いを抱いた時だったのだ。
 冬であれば、暖かさから布団から出たくないという思いに至るのだが、その感覚に似たものがあった。
――このままじっとしていると、二度寝してしまう――
 という気持ちから、
「目を覚まさなきゃ」
 と自分に言い聞かせるのだが、なかなか身体が素早く反応してくれない。
 身体が反応してくれないと、頭でいくら考えてもどうしようもない。頭で出した指令に従って動くのが身体だからだ。
 身体が頭の指令に背く時というのは、睡魔が襲ってきている時だった。
 睡魔は身体に痺れを与え、睡魔を必要以上に意識させることで、身体の動きをマヒさせる。
 身体がマヒしてしまうと、それに連動して、今度は頭もマヒしてしまう。
 そこにどんな力が働いているのか分からないが、香澄にとって身体のマヒは、頭のマヒから避けて通ることのできないものだと思っていた。
――このまま眠ってしまわないように、身体を起こさないと――
 何とか身体を起こすことが今まではできていたが、次第にそれも難しくなってきた。
 やはり知らない何かの力が働いているからに違いない。
 一度香澄は、最高にいい目覚めを経験したことがあった。
 だが、それほどハッキリとした気分のいい目覚めは初めてだったはずなのに、
――以前にもどこかで――
 というようなデジャブを感じさせるものだった。
 どんなにいい目覚めをしたとしても、目の前に見えている光景を、実際に自分が見ているという意識にならないのである。それがいつも寝起きしている自分の部屋であっても同じこと、逆に自分の部屋であるからこそ、そんな風に感じるのだ。
 香澄は自分がデジャブを感じた時に最初に思うのは、
――前に見たと感じたのは、夢の中のことではないだろうか?
 という感覚だった。
 何か自分の予期していない想定外の出来事が起こった時、それが夢のせいだと思うのは、普通のことだと香澄は思っていた。自分だけではない誰もが感じることなので、それがいい悪いの問題になるのだとは思ってもいなかった。
作品名:一日百時間 作家名:森本晃次