永遠の命
彼は、黒崎を風俗に連れて行った。彼には馴染みの風景だが、黒崎には初めての光景だったに違いない。
「おや、高田さんじゃないですか?」
高田と呼ばれた彼は、考えてみれば、今まで黒崎から名前で呼ばれたことがなかったのを思い出していた。
店の前で掃除をしていた男性スタッフから声を掛けられた高田は、
「こんばんは。今日は同僚を連れてきました。彼は童貞なので、そのあたりよろしくお願いしますね」
と言って、含み笑いを浮かべた。
スタッフもそのあたりはよく分かっているのか、高田と同じような含み笑いを浮かべ、無表情の黒崎に顔を向けた。
――おや?
黒崎は少し訝しい気分になった。
今までデあれば、ここまで無表情になれば、露骨に無愛想に相手が感じて、相手もその感情を隠すことなく、露骨な表情を返してくるだろうと思っていたのに、このスタッフはそんな意識などまったくないかのように、笑顔で応対していた。
「じゃあ、行こうか」
と言って、店の中に入った。
店は思ったよりもこじんまりとしていて、まるで取ってつけた小屋のようで、いかにも風俗という感じがした。
待合室で待っていると、十五分ほどして、
「こちらのお客様、どうぞ」
と言って、黒崎が呼ばれた。
さっきまで平然としていた黒崎だったが、この時初めて、表情が変わった。怯えのような雰囲気があり、一人スタッフに呼ばれて席を立つと、座っている黒崎の方を見返した。
――さすがの黒崎君も臆したかな?
と感じたが、その時高田は初めて黒崎の人間臭いところを見たようで、嬉しくなっていた。
今まで黒崎のことを、
――人間らしい――
と思っていたが、初めて、
――人間臭い――
と感じた。
人間臭さは、今までの黒崎に感じられなかったことであり、それだけ別の人種のように思えた。高田が黒崎に近づいたのは、黒崎の仮面の下を覗いてみたかったからで、その一端をこの時初めて見た気がした。
「がんばって来いよ」
と言われて、黒崎は初めて腹が座った気がした。
さっきまでから考えて、こんなに何度も気持ちに変化が一瞬にして起こるなど、思ってもみなかったことだった。自分の中に変化が起こったのを感じた黒崎だったが、その変化を最初に感じたのは、身体なのか、それとも気持ちなのか、すぐには分からなかった。
――これが思春期というものか――
と感じていた。
「いらっしゃいませ」
目の前に鎮座している女性は、和服を着ていた。
和服の似合う女性を黒崎は今までに一人だけ知っていた。
「お姉さん」
それは、自分が小学生の時に亡くなった自分の姉に似ていたように感じたからだ。
姉とは年齢が十歳以上も離れていたので、姉というよりも、母親に近い存在だったのかも知れない。いつも何があっても庇ってくれたのは姉だった。小学生の頃は成績も悪く、勉強にはまったく興味を抱いていなかった、そんな黒崎を、両親は蔑むように見ていた。
「あんたがちゃんとしていないといけないのよ」
というのが母親の口癖だった。
今から思えば、余命幾ばくもない姉のことを分かっていたから、姉が死んでからは長男の黒崎にしっかりしてもらわなければいけないという親心だったのだが、姉の余命を知っているわけでもなく、まだ小学生だった黒崎に、親の気持ちなど分かるはずもなかった。
そんな黒崎に優しかったのが姉だったというのは皮肉というよりも、黒崎にとっては、
――どうして、そんなに優しくできるんだよ――
と感じられた。
姉が生きている間は、その優しさに甘えていたが、亡くなってしまうと、姉に対しての想いが余計に募ってしまって、自分を追い詰めるようになっていた。
――俺がしっかりしていれば――
と後悔しても遅いのだが、考えてみれば、それこそ母親の言っていた、
「あんたがちゃんとしないといけない」
という言葉を裏付けているのだった。
こんなことなら、どうして自分に本当のことを話してくれなかったのかと思うのだが、何しろ小学生の子供なので、そうもいかない。姉の余命は本人は知らないと両親も思っていたようだが、姉は密かに知っていたようだ。
黒崎はあとから思えば、
――そんなことなら、最初から誰も秘密になんかしなければよかったんだ――
と悔しがった。
最初から皆了解済みであれば、いくらでも言いたいことが言えたであろうに、秘密にしていたことで、本音を言えずに、結局自分の中の気持ちにウソをついてしまったり、重いとは別の行動をしてしまったりと、残るのは後悔だけであった。
姉が亡くなって、四十九日が過ぎると、もう誰も姉のことを口にしなくなった。姉のことを口にしても、亡くなった人が帰ってくるわけではない。それだけが事実であった。いつまでも引きずっているわけにはいかないというのが、暗黙の了解だったのだろう。
しかし、少なくとも黒崎少年にはトラウマが残ってしまった。
――知らないということがどれほどの不幸なことなのか――
というトラウマである。
――「知らぬが仏」という言葉があるが、そんなのは俺には当て嵌まらない――
一度、知らなかったことで後悔し、その後悔を二度と取り返すことができないという想いがトラウマになってしまうと、この思いは一生消えない傷となって残ってしまうことが確定しているように思えた。
その時の思いから、黒崎は心理学を勉強するようになったのだ。
そして、中学高校という間に彼には孤独が似合う性格になっていた。人と関わることをなるべく少なくし、自分の意見や考え方が一番だという思いに至っていた。そのために心理学を勉強し、人と関わらなくても自分ひとりで生きていけるだけの精神力を持ちたいと思うようになっていた。
中学高校時代というと思春期である。
まわりの男子は皆、女の子に現を抜かしているようにしか見えなかった。公然と女の子への思いを口にしているやつもいれば、一人で悶々としているやつもいる。どちらも見ていて嘔吐を催してくるほど気持ち悪いものであったが、どちらが気持ち悪いかというと、一人で悶々としているやつの方が気持ち悪かった。
――何を考えているのか分からない――
という想いが強かった。
まわりから見れば、自分も同じなのかも知れないが、
――あんな連中と一緒にしないでくれ――
と言いたいのだが、結局は、表向きには大差がないだろう。
そうなると、そんな目で見ている連中も気持ち悪く思えてくる。そのうちに人間嫌いになってきて、どんどん孤立を深めていくことになる。
身体が思春期の反応を示さなかったのはどうしてなのか分からなかったが、ひょっとすると、自分の中にはまだ姉が生きていて、
――姉ほどの素晴らしい女性はいない――
と思っていたからなのかも知れない。
その思いがあったからこそ、同じくらいの年齢の女性を見ても、感情の高ぶりはなかった。大人の女性を見ていても、
――なんてふしだらな――
どこがふしだらなのか分からないくせに、どうしても死んだ姉と比較してしまい、女性すべてに対して、自分の中で結界を作っていたのだ。