永遠の命
「それでは数学のような公式は、人間の心には通用しないということですか?」
「そうだね。人間の心だって科学だと思っていると言っただろう? それは間違いないんだけど、人間の心という科学は絶えず動いていて、決まった答えなんか存在しないのではないだろうか?」
「じゃあ、答えはいっぱいあるということでしょうか?」
「それこそ、無限の可能性というのは、このことを言うんだろうね」
他の人から、
「無限の可能性」
などという言葉を聞かされると、まるで絵に描いた餅のように、薄っぺらいものに感じられるが、教授がいうと、説得力がある。それを感じることができるのも、黒崎は自分の中に自分以外の誰かを感じたからであろう。
――自分以外の誰かって誰なんだ?
最初は、高田がいるような気がしていた。
高田という男、非常に気になる男であった。彼のような男こそ心理学を研究するにふさわしい男なのだろうが、どうして心理学をそんなに嫌がるのだろう?
「先生、僕の中にもう一人、誰かがいるような気がするんですが、それが誰なのか分からないんですよ」
というと、教授はニッコリと笑って、
「心当たりがあるんじゃないかい?」
と言われて、一瞬ドキッとしたが、すぐに、
――教授くらいになれば、これくらいのことを見抜くのは、朝飯前なんじゃないだろうか?
と感じたが、教授はそれを見越してか。
「私には君が考えていることを分かるほどの力はない。人が考えていることが分かるというのは、洞察力だけではダメなんだ。相手との相性がピッタリでないと考えを見抜くことなんかできやしないんだ」
「そんな都合のいい人がいるはずもないですよね」
と黒崎がいうと、
「そんなことはない。世の中には自分にソックリな人が三人はいると言うじゃないか。外観がソックリな人が三人もいるんだったら、相性がピッタリの人はもっとたくさんいてもいいはずだよね。そういう意味では、自分にピッタリの相性の人は、意外と身近にいたりするものだよ」
「でも、さすがに、相手の考えていることを見抜ける人となると、確率はぐんと下がってしまいますよね」
「それはそうだろうね。でも、自分が相性がピッタリだと思うと、相手も何となくそのことに気づくというもので、お互いが相性を分かち合えれば、気持ちを感じることができる確率はかなりのものではないだろうか」
教授の話にはいちいち納得させられる。
――ひょっとして、教授が自分にとっての相性がピッタリの相手ではないか?
と感じたが、教授を見ていると、黒崎との相性を合わせているようには思えない。そう思うと、やはり相性が合う人間は他にいるに違いない。
教授の話を聞きながら、高田のことを思い出していた。
高田という男は、実は現在行方不明になっていた。一緒に大学を卒業して、彼は建設会社に入社したはずだった。
しかし、その頃の高田は、大学に入学した頃のような、黒崎から見ての、
――頼もしさ――
がなくなっていた。
就職が決まって、卒業前あたりからであろうか、急に高田の方から黒崎を避けるようになっていた。
「一緒に呑みに行こう」
と黒崎の方から誘っても、
「いや、俺はいい」
と言って、黒崎の誘いを断っていた。
以前は、高田の方が黒崎の予定を構うことなく誘ってきたにも関わらず、こちらから誘うと、けんもほろろに断りを入れるというのは、少し虫が良すぎるように感じた。
だが、高田を見ていると、黒崎から怯えを感じるようになった。ただ、それは苛められっこが苛めっ子に感じているようなそんな怯えではない。寄ってくる相手を反射的に避けているようなそんな雰囲気だ。目線を下から上に向けていて、今までの上から目線ではない高田に対して、黒崎の方も怯えを感じるようになっていた。もし、黒崎の中に誰かが潜んでいるとするなら、その時に感じた怯えから、
――高田なんじゃないか?
と感じたのも無理もないことだった。
黒崎はそのことを教授に話そうかどうしようか迷った結果。話すのを躊躇してしまっていた。すると、教授の方から、
「自分の中に誰かがいるという感覚を持つ人は結構多いんだけど、すぐに、『そんなバカな』と言って否定するんだよ。あまりにも一瞬で否定してしまっているので、本人も誰かが自分の中にいるということを感じたということも、それに対して何かを考えようとして、すぐに否定してしまっていることに気づかないものなのさ」
「まるで夢の中のようですね」
「ああ、そうだね。夢はどんなに長く見ていたように思ったとしても、目が覚める前の一瞬で見たと言われているからね。だから、夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものだって思うんだよ」
教授の話はよく分かった。この意見は、黒崎も普段から感じていることだったからである。
黒崎が三年生の頃、高田が行方不明になるという夢を見たことがあった。まさかそれが正夢になろうなどと思ってもいなかった。しかし、その時の夢やいやにリアルで、このことを本人に話していいかどうか悩む必要がないほど、黒崎には不気味な内容だった。
もちろん、夢の内容を全部覚えているわけではない。しかし、目が覚めるにしたがって忘れてしまうのが夢だと思っているわりには、目が覚めてからもしばらくは意識から離れないほどのリアルさがあった。
当の本人から、
「どうしたんだ、黒崎。そんなに怯えて」
と言われたほどだったが、心の奥を見透かされているようで怖くて、何もいえなかったものだ。
だが、実際には高田は黒崎のことをよく分かっていたようだ。
高田がいなくなる夢を見てからしばらくして、高田は、
「俺がいなくなったら、お前は俺のことを気にしてくれるのかな?」
と言われたことがあった。
「それはそうだろう。大学に入ってからずっと友達じゃないか」
と言うと、高田は軽く首を横に振りながら、
「君は、そんな男じゃない。俺のことなんかすぐに忘れるさ」
と言ったが、その言葉を否定するだけの力が黒崎にはなかった。
――こいつ、僕のことを看破しているようだ――
見透かされていると思ったが、ビックリはしなかった。
――お互い様じゃないのかな?
と、黒崎も高田のことをだいぶ分かってきているように思ったからだ。
そう思うと、黒崎は自分の目の前からいなくなる高田を想像することができた。それは高田のことではなく、自分のことのように感じられたからだ。
――もし僕が今、行方不明になったら、誰か気にしてくれる人っているんだろうか?
彼女がいるわけではないし、親は一応は気にしてくれるだろうが、どこまで本気で気にしてくれるか分かったものではない。
親も今、実は離婚調停中とのこと。子供にかまっている暇などないかも知れない。
黒崎が心理学を志すようになった理由のひとつに、親との確執があった。大学に入ってから一人暮らしを始めると、余計に親との距離は決定的になり、
「子供は親を選べないんだから、子供が大人になれば、親と距離を置いてもいいじゃないか」
と思うようになった。
実際に親の方も、それぞれでよろしくやっているようで、父親の不倫が発覚してから、家族はバラバラになってしまった。