永遠の命
それでも、不老不死の人間は行き続けなければいけない。死ぬことを許されない彼と、生きることを許されずに寿命がくれば死んでしまう普通の人間とでは、どちらがいいというのだろう?
「それこそ、生き地獄だ」
と思うに違いない。
そして、こうやって想像するよりもはるかに辛い思いが、不老不死の人間には用意されていると思うと、ゾッとしてしまう。
「じゃあ、すべての人間が不老不死になればいいじゃないか」
と言われるかも知れないが、それこそ発想が愚の骨頂である。
誰もが不老不死であればどうなるだろう?
人間は、年も取らずに、そのまま生き続ける。しかし、子供を産むという機能が残っているのであれば、今の人間からさらに子供の人口が増えてしまう。
その子供は生まれもって不老不死というわけではないだろう。不老不死になるには、ある程度の年齢になって、どこから先が、年を取らない不老であるかを選択する義務が生じることになる。
ただ、その時、今までの人間のように、不老不死にならずに、寿命がくれば死んでいくという権利も与えられているであろう。
そんな人がどれだけいるかである。
不老不死に一度なってしまうと、元に戻ることはできない。
永遠に年を取らずに生き続けるのだから、当然、人口は増え続け、食糧問題や住宅問題など、将来において、住む場所や食べ物がなくなってしまうことになるだろう。
そうなると、他の土地を侵略するという発想になる。今であれば戦争である。
戦争というと、
――殺し合い――
であるが、相手も不老不死なら、いくら攻撃しても同じことだ。却って貴重な資源を壊してしまうだけになり、何の解決にもならない。
戦争すらできない環境で、これから先、明るい未来などあるというのだろうか?
それなのに、昔から不老不死は人類の永遠のテーマとされてきた。ただ、それは社会全体の問題ではなく、一人の人間、あるいは妖怪の考えであり、
「自分こそ、不老不死を手に入れる」
と考える妖怪がたくさんいることで、いろいろな物語が生まれてきたのだ。
物語性としてのファンタジーが、不老不死の発想だとすれば、それはそれで面白い。しかし、それを本当に追い求めている人がいるのだとすれば、昔から描かれているファンタジーは、そういう連中に対しての警鐘ではないだろうか。
あえて物語の中で不老不死を求める妖怪を登場させ、主人公にやっつけさせる。考えてみれば、不老不死が実現した話など、小説としてあったであろうか? あくまでも追い求めているだけで、その実現はいくら小説とはいえ、書かれているものはない。
不老不死を手に入れた者がどうなるのかということこそ、永遠のテーマであり、それをあえて話にしないというのは、作家のせめてもの、
――小さな抵抗――
と言えるのではないだろうか。
それが何に対しての抵抗なのか分からないが、抵抗こそが、不老不死を物語りにする意義だと思える。
不老不死がパラドックスであるとすれば、人生の永遠のテーマというのは、すべてがパラドックスのような気がする。
考えてみれば、
――太古の昔から永遠のテーマとされていることを現在でもまだ達成できていないからこそ永遠のテーマなんだ――
と言えるのではないか。
一つでも達成できていれば、永遠のテーマなどというものは、すでに存在していないように思う。少なくとも、
――将来において達成できるであろうテーマ――
という発想にはなっても、永遠と言う言葉にはならない。
言葉になるとすれば、
――限りなく永遠に近い――
という表現にとどまるであろうが、この言葉自体が矛盾しているように感じられる。
そういう意味では永遠という言葉は、
――限りなく矛盾を含んでいるもの――
と言えるのではないだろうか。
永遠という言葉を好きではない人は結構いるのではないか。なぜなら、
――半永久的――
という言葉がある。
これは、永遠に限りなく近いものとしての印象であるが、永遠という言葉は、ありえないことや願望から成り立っている言葉で使用するものであって、それ以外の現実的なことは、この半永久的という言葉が使われることが多い。
それだけ、永遠という言葉に対して、人間は憧れや願望を持っている反面、怖いものであるということも分かっているのだろう。
ほとんどの人は意識することなく使っているが、その中でも無意識に使い分けている。人間というのは、それほどバカではないということの証明なのかも知れない。
また、人間が永遠という言葉を使う時は、
――孤独――
という思いを抱いた時ではないかと考える人もいる。
孤独と寂しさは似たようなものだという発想もあるが、決して同じではない。寂しさに対して明るい発想はないが、孤独に対しては明るい発想を持つことができる。
一人でいることを孤独という表現をするのであれば、孤独は決してマイナスイメージばかりではない。一人でいることで、他人と関わらずにできることだってある。
下手に他人が関わってくると、自分を見つめることもできず、自分が何をやりたいのか分からないまま、人生を過ごしてしまうこともあるだろう。
――孤独こそが、自分の唯一の味方だ――
と考えている人もいるに違いない。
K大学の心理学研究書に、新宮教授という名誉教授がいる。
彼は、心理学の世界では、世界にも通用するだけの名声を持っていた。彼の考えはいつも奇抜で、
「心理学者たるもの、普通の考えをしていたのでは、新しいことを見つけることなどできるはずはない」
と言っていた。
一種の変人と言ってもいいのだろうが、まわりの人も、
「いかにも心理学の先生らしい」
と、褒め言葉なのか皮肉なのか、どちらとも取れる言葉を彼に与えていた。
新宮教授は、今年六十歳になっていた。
五十歳代までは、気力体力、どちらも衰えを感じていなかったが、六十歳になった途端、自覚するようになっていた。もっとも、その自覚をまわりに示さないのは彼の意地なのか、その分、毒舌も激しくなっていた。
しかし、学会でも一目置かれている新宮教授は、研究生から見れば雲の上の存在であり、その言葉の重みは誰よりも感じていた。崇拝していると言ってもいいだろう。そういう意味では研究生たちも他の人たちから、
――変人グループの一人――
という見方をされていたようだ。
もちろん、あからさまにそのことを表に出す人はいなかったが、さすが心理学を専攻している研究生、まわりの人が何を考えているかなど、すでにお見通しだった。
だからと言って、まわりに対して過剰反応を示さない。あくまでも冷静で、
「冷静こそが、心理学の第一歩」
と位置づけていたほどだった。
新宮教授は、大学の講義も一週間に一時限ほどで、後は自分の研究に勤しんでいた。彼には名誉には固執するところがあったが、地位には固執していなかった。そのため、学部長選挙には一度も立候補することもなく、学閥などにも参加していない。まったくそんなことには興味を持たなかった。
「あの人は研究一筋で、変人ではあるが、彼こそ一番人間らしいのかも知れないな」