永遠の命
と思っていた。
黒崎も、学校から帰ると、部屋に閉じこもったきりで、リビングに出てくることもなかった。
父親は仕事が忙しいようで、小学生の頃には、黒崎が起きている時間に帰ってきたことなどなかった。たまに十二時前くらいに目が覚めてトイレに起きてくると、リビングで食事を摂っている父親を見ることがあるくらいだった。母親は黙々と洗物をしていて、父も何も話すことはないようだ。疲れきっているからなのだろうが、それにしてももう少し会話があってもいいというものだ。
そんな両親だから、休みの日に、
「ショッピングセンターにでも出かけるか」
と父が言い出しても、母はそれを拒否することはない。
「お前も行くぞ」
と、父親から声を掛けられた黒崎に、拒否権はなかった。
拒否権がなかったというよりも、黒崎に拒否という選択肢が自分の中になかったのだ。どんなに面白くないと思ったとしても、ここで拒否してしまうと、大きな山がお誤記そうな気がして、それが恐ろしかったのだ。
――僕の家は、崩してはいけない緊張の上になりたっているんだ――
と思っていた。
もし、その山を崩してしまうと、修復が不可能になってしまうようで怖かった。修復できなかった時のことなど、子供の黒崎に想像できるはずもなかった。
――嫌でも仕方がない――
この思いが、その後の黒崎の性格を司ることになるのだった。
絶えず、両親の顔色を窺っていたような気がする。その時、
――相手の気持ちが分かれば、少しは違うんだろうな――
と単純に考えていた。
その思いが、心理学を志す一つになったと言っても過言ではないが、小学生の頃の黒崎は肝心なことが分かっていなかった。
――相手の気持ちが分かったとしても、自分がどうすればいいのかが分からなければ、どうしようもないんだ――
ということである。
そのことに気付いたのは、それからずっと後になってからのことで、徐々に分かってはきていたのであろうが、ハッキリと分かってきたということを自覚し始めたのは、恋愛小説を読むようになった頃からだった。
心理学を実際に専攻して、本格的に勉強し始めたのは大学に入ってからのことだったが、興味に関しては高校生の頃からあった。専門書を読んでもきっと分かるはずもないのは分かっていたので、とりあえず小説を取っ掛かりにしようと思うようになった。ミステリーを読み始めたのは高校時代からで、受験勉強の合間にミステリーをよく読んだ。
受験勉強の合間なので、それほど難しいものは却って疲れてしまう。それを思えば、ちょうど娯楽として読むにはミステリーはちょうどよかった。
大学に進学し、実際に心理学を専攻するようになると、ミステリーでは物足りない。どうして恋愛小説を読むようになったのかは自分でもハッキリとは分からないが、一冊の目に留まった小説を手にとってみると、カバー裏面にあるあらすじに興味を持った。
主婦である主人公が、いかに旦那を騙して不倫を重ねるかという話の中で、旦那が同窓会で出会った女性と、悪いことだという意識を持ち、W不倫を重ねることになるという、本来ならどこにでもありそうな小説のストーリーだった。
しかし、そんなありふれた内容なのに、ベストセラーになっているという。
――一体どこがそんなに読者を引き付けるというんだ?
というところに興味を持った。
実際に買って読んでみたが、読んでいるうちに次第に不快に感じられてきた。愛欲のドロドロとした雰囲気に、気持ち悪さが身体をゾクゾクさせた。さらに読み進むと、主人公の気持ちの葛藤が、後悔と自責の念に集中しているのだ。
――そんなに後悔するなら、最初から不倫なんてしなければいいのに――
と感じられた。
一方、旦那の方には、最初こそ罪悪感があったようだが、次第に罪悪感が消えていっていた。
それは、相手の女に魅了されているからで、相手の女をその本は、
――魔性のオンナ――
として描いていた。
相手の女は、不倫をそのまま楽しめばいいのに、急に相手の奥さんに自分たちのことを公表したいという衝動に駆られてきた。
それは、旦那の中に罪悪感の欠片も感じられないからだ。
――私は、自分の旦那に対して不倫をしながらではあるけど、罪悪感を感じているというのに、この人は何も感じていないなんて許せない――
というう気持ちからだった。
その感情をどう表現すればいいのか、黒崎は考えた。
――嫉妬や妬みではないような気がするわ――
嫉妬や妬みであれば、相手の奥さんに対しての気持ちであるはずなのに、相手の奥さんに対しては何も感じておらず、不倫相手の男性に対してだけ、恨みが徐々に膨らんでいるようだ。
――独占欲――
そう思えば納得できた。
不倫相手の女性は、自分自身への心境として、
――自分の旦那に後ろめたいという思いを抱きながら、この男性と一緒にいるのだから、私だけのものにしないと許せない――
と思っているのだろう。
もちろん、虫のいい発想ではあるが、不倫というのは、そもそもそういうものなのではないだろうか。
好きになった相手と結婚したが、次第に想いは冷めていく。結婚した時がピークで、それ以上の感情を持つことは不可能だ。
そのことを実感するのは、誰にでもあることだろう。その時にどうするか、人それぞれで、
「私は、結婚したのだから、一人と決めた伴侶のために、少々の犠牲は仕方がない」
と感じている人もいるだろう。
その思いをずっとそのまま維持できる人もいれば、無理を押し通そうとして、結局苦悩から逃れるために、不倫に走る人もいる。
縛りを自らに課してしまうことで、まわりから見て、その縛りを解いてみたくなる男性がいたりする。その男性は、きっと自分の奥さんが同じように縛りを自分に課し、夫に対して結界を設けることで、
――俺にはどうすることもできない――
と地団駄を踏むことになる。
しかし、まわりを見ると、自分の奥さんと同じような縛りを課している他人の奥さんが眩しく見えてくる。まるで、
――俺に助けを求めているようだ――
と感じてしまうと、いても立ってもおられずに、近づいてしまう。
縛りを課した女性は、その包容力であたかも簡単に縛りを解き、それまで感じることのできなかった懐かしい抱擁を感じ、甘美で浮かれたお花畑に身を預けることになる。
――それが不倫だというのなら、不倫のどこがいけないの?
と感じることだろう。
そこから、生まれるのは愛情なのか愛憎なのか、それを描くのが恋愛小説である。
ベストセラーだという目で贔屓目に見てしまったことも要因にあるのだろうが、それからの黒崎は、恋愛小説を読み漁るようになっていた。
――自分が志す心理学も、恋愛小説を教科書とできるほどの学問なのではないか?
黒崎はそんな風に考えた。
恋愛小説を読むようになって、ミステリアスな部分をどこに求めるかというのが、一つのテーマになってきた。
――同じ日を繰り返しているという感覚――
これも、ミステリアスな発想に結びついてくるのだった。
心理学