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落ち武者がいた村

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 ここから書物の話を織り交ぜていくと、滝つぼに一人の女が佇んでいた。その女性は村長の娘であり、年の頃は十代後半というところであった。
 親同士が決めた祝言を控えていたのだが、彼女には心に決めた相手がいた。もちろん、村長の娘に生まれた彼女は、自分の運命を自分では決められない時代に生きていることを分かっていた。身分の違い、お家のため、いろいろな理由で、婚姻を自分では決められないのだ。
「分かっていたはずなのに」
 それなのに、どうして他の男性を好きになってしまったのか、彼女には分からなかった。無理もない。生まれてからこれまで人を好きになったことなどなかった。運命にも逆らえないことも分かっていた。
「逆らえないのなら、逆らおうなどと思わなければいいんだ」
 と、彼女は自分の運命に身を任せることしかない人生で、余計なことを考える必要のないことを悟っていた。下手に余計なことを考えれば、自分だけでなく、まわりを巻き込んでしまうのが分かっていたからだ。
「私さえ、大人しくしていれば」
 と思っていた。
 母親からも、そう言って育てられた。母親を見ていて、別に苦しんでいる様子もなければ、必要以上に何かを考えているというわけでもない。
――流されるように生きていくことが私の運命なんだ――
 と、感じていたに違いない。
 だが、そんなことをずっと思っていたにも関わらず、急に気持ちが自分で抑えられない時期がやってきた。
 本当は母親にも同じような時期があって、母親もその時期を超えてきたのだ。母親に限ったことではない。村長の家系で、女として生まれた人は、誰もが一度は自分の思い通りにならない時期を通り超える性を持っているようだ。
 彼女も、その時期を迎えた。それまで余計なことを考えないようにしていたから分からなかっただけで、自分の思い通りにならない精神状態を迎えた時、初めて自分が自分の頭で何かを考えることができるということに気が付いた。
 しかも、それまで想像もつかなかったことが、次々に頭に浮かんでくる。それは、他の人の想像力をはるかに超越していて、人生を通して想像することができる人のすべてを、その一時期だけに凝縮されたかのようだった。
 想像力は予知能力でもあり、意識の中の超能力と言えるのではないか。
「超能力とは、誰もが持っているもので、人は自分の能力の数パーセントしか使っていない」
 と、未来では考えられていることを、その時の彼女には、分かっていたようだ。
 ただ、この村の人は彼女に限らず、女性であれば誰でもそうだったのだ。百姓の子供でも、神主の子供でも、誰もが普段から何も考えないようにしていても、急に思い立ったように自分に目覚めることがある。その時期が他の女性は短いもので、鬱積したものを残すことはなかったが、その時の村長の娘は、鬱積したものを拭い去れずにいた。そのせいもあってか、彼女は、
――自分が自分であるというのはどういうことなのか?
 ということを考えるようになっていた。
 そして結論として導きだされたのが、
「私には、他に好きな人がいるんだわ」
 という思いで、我に返って考えると、
――それなのに、どうして好きでもない、ましてや会ったこともない相手と結婚しなければいけないのか?
 ということの理不尽さに気付いてしまった。
 気付いてしまうと、彼女に残された感覚は、苦しみだけだった。前を向いているはずなのに、それが本当に前なのかどうか分からない。自分がやっと持てたはずの自分の考えに対して、自信ところか、何を考えているのかという自分を納得させられるだけの意識がないのだ。
 ペットとして飼われていた動物を、いきなりアフリカのジャングルに放つようなものである。過ごしたこともない場所で免疫もなく放り出されると、当然馴染めるわけもなく、一日として生きていくことはできないだろう。
 慣れという言葉もあるが、免疫がないのが大きな理由である。
――何をどうしていいのか分からない――
 本能だけではどうしようもないものが、そこにはあるのだ。
 自分に気付いてしまった彼女も同じだった。
 好きになった人と二人で駆け落ちなどという現代の発想があるわけでもない。結局悩み苦しんでも、堂々巡りを繰り返すだけ、どうしていいのか分からずに達した結論は、
「死を選ぶこと」
 それだけだったのだ。
 それには、ちょうどいいところがある。村の神社の奥にある滝つぼだ。それまでお嬢様として育てられた彼女は、滝つぼに行ったことがない。滝というものがどういうものなのかというのは知っているが、ここまで力強いものだということを知る由もなかった。
 神社で彼女はお参りをした。
 死を目の前にして、何をお参りしようというのか、ただ、彼女は神社を目の前に、ただ通りすぎることができなかっただけだ。
 手を合わせてお参りをしているが、自分でも何を祈ったのか分からない。ただ手を合わせていただけだった。
 その頃の彼女には、まわりの喧騒とした音は何も聞こえない。鳥のさえずりさえ聞こえてこない。覚悟を決めている証拠なのだろうが、音が聞こえてくることにも恐怖を感じていたのかも知れない。
「恐怖?」
 何が怖いというのだろう?
 神社でお参りをしてから、滝へ向かって一直線。森の中の道なき道を掻き分けて行った。本当は、綺麗な道があるのだが、彼女には綺麗な道が分からなかった。いや、敢えて道なき道を行ったのかも知れない。お参りをしたのは、
「まっすぐな死をお与えください」
 というものだった。
 綺麗な道は、彼女の考える、
「まっすぐな死」
 ではない。道なき道を掻き分けるようにして歩いている道こそ、まっすぐな道なのだ。「綺麗な道とは決してまっすぐではない」
 この思いは、自分の置かれている立場が理不尽に満ち溢れていることを皮肉に感じているからだった。
「死というものがどこまでのものなのか分からない」
 という思いをその時の彼女は抱いていた。無意識なのだろうが、死の向こうにも、さらに続きがあるという妄想に駆られていた。だからこそ、
「死は怖くない」
 と自分に言い聞かせることができ、少しでも恐怖を和らげようとした。そのため、何が恐怖なのか分からないという気持ちに陥り、感覚をマヒさせることで、
「躊躇い」
 を失くそうと考えた。
 躊躇いというのは、百害あって一利なしだと思っている。
 手首を切って自殺しようとする人が、一気に死ぬことができず、躊躇い傷を残したまま、結局死に切れないということだってある。もちろん、そんなことを彼女が知っているはずもないが、無意識に悟るのだろう。
 死を前にした人間というのは、一気に悟りを開くことができ、それが後悔しないことへの布石になっているのではないか。死んでしまってから後悔するというのは、死んでから先も、自分は滅びずに続いていくという発想である。死んだからといって、苦しみからだけ逃れられるというのは、あまりにも都合がいい発想だ。当然、死を選んだ時から、苦しみだけではなく、それ相応の代償を伴うものだ。
 どれほどのものなのか想像もつかない。いや、死を前にした人には、それを想像する資格はないのだ。
作品名:落ち武者がいた村 作家名:森本晃次