落ち武者がいた村
というよりも、喜兵衛の時代のことは、あまり書かれているわけではない。もちろん、時系列として一つの章として描かれてはいるが、客観的すぎるのだ。
「確かに、自分たちの祖先、つまりは落ち武者を中心とした世代の人間、そして喜兵衛の時代の人間、自分の家系は皆、他人事のように客観的に考える人が多いようだ」
その方が、書物制作には向いていて、文章にもそれが表れていることだろう。
緒方は自分のことを落ち武者の時代に出てきた登場人物や、喜兵衛のような人物とは一概には比較はできないものだと思っていた。
緒方も喜兵衛も自分の先祖のことをそれまでは、ほとんど考えたこともなかっただろう。二人とも、古文書であり、書物を見つけて先祖の気持ちになってみた時、この村のことや自分たちの運命について考えるようになった。
他の人たちが、いや、それまでの自分も同じなのだが、運命というものが、過去から培われてきたものに影響を受けているということを、頭では分かっていながら、実感できていなかったはずだからだ。
この村では、喜兵衛の時代に、この村名産の食べ物が一度だけ、他の村を伝って、中央でも有名になったことがあったが、その時一度だけだった。古文書にも他の村から誰かが入ってきたという話も聞かないし、この村の話題が他の書物に残されることはなかった。
緒方は、この村の過去のことを調べていくうちに、自分が何者であるのか、疑問に思えてきた。調べると言っても、古文書を見ることしかできない。なぜなら、この村を出ることができないからだ。
このことに気づいたのはいつからだっただろうか?
気づいていながら、何の疑問も抱いていなかった。この村の外には確かに他の村があるのは間違いないはずなのに、他の村に行ってみようという気にはならなかった。
そういえば一度だけこの村を出てみようと思ったことがあった。村の外れまで行って、そこから一歩足を踏み出したはずだった。しかし、何もしていないのに、踵を返したように、目の前には村が広がっていた。
「夢を見ているのだろうか?」
と感じた。
普通なら、そこでどうして自分が村を出ることができないのか、もう少し考えてみるのだろうが、その時の緒方は、それが当たり前のことだと思い、それ以上考えないようにした。そして、村を出てみようなどという思いを、今後二度と考えることはないと思うのだった。
実際に、村を出てみようと思うことはなかった。緒方の他の村人も、誰も何も言わないが、村を出ようという思いを、一度は抱いたのだと思った。そして、村を一歩踏み出そうとして、緒方が感じたように、村から出ることができずに、それ以上、村から出ることを考えないようになったのかも知れない。
かつてこの村では、他の村との往来は普通に行われていたはずだ。しかし、ある時から村は他から遮断された。それが落ち武者が入ってきた時ではないだろうか。
落ち武者は村の娘と心中しようとしたが、結局どこに行ってしまったのか分からない。女だけが助かって、その女を助けた男に襲われるという悲劇があったが、それ以前に、自分の兄に襲われたという過去を持っていた。
彼女は、波乱万丈の人生の中で、絶えず何かの記憶を失っていた。それが封印されたものだったのか、それとも、本当になくなったものだったのか分からない。
その時、村には竜巻が起こった。
その竜巻は、普通の竜巻と違い、下から上に向かって起こるもので、この村独特の地形によるものなのか、この村の特殊性によって作られるものなのか、分からなかったが、それでも竜巻によって人が助かったり、死んだりしたのも確かなようだ。
この竜巻は、世襲する村長が在任中には、決して二度は起こらないものだった。しかも、この竜巻を実際に見た人はいない。いたとすれば、その人は竜巻に巻き込まれた人で、助かったとしても、記憶を失ってしまっていたようだ。
緒方は、この古文書を最後まで読みこんでくると、そこに書かれていることが、曖昧な内容が多いのに、やたらとリアルな雰囲気も感じられた。何か予感めいたものを感じたのだ。
この古文書に書かれている人は、ほとんどの人の名前が記されていない。ただ、喜兵衛という名前だけが記されている。
「この古文書は、喜兵衛という男が記したのではあるまいか?」
と感じるようになった。
喜兵衛の書いている内容は、物語のようでもあるが、ところどころ、まるで学問書のような錯覚を覚えることがあった。竜巻の話など、かなり学術的で、
「江戸時代と思しき時代に、どうしてよくここまで学術的なことが分かるのだろうか?」
と、感じられた。
まるで現代の研究書を読んで、自分の時代と照らし合わせて書かれたようなものではないか。そう思うと、緒方の興味はどんどん増してくるのだった。
ただ一つ不安なこともあった。
「余計なことを知りすぎるのは怖い気がする」
ただ、この村に残る滝つぼは、緒方にとっても因縁深いものであることは確かである。「滝つぼに対しての思い入れは、今の時代では俺以上の人は誰もいないだろう」
と、感じるほどだった。
戦国時代から考えれば、五百年近くが経っている。これまでにここにどんな人が住んでいたのか、実に興味があった。
「俺と同じような考えの人もいたんだろうな?」
とも思えたが、喜兵衛のように、古文書を書き替えるほどの感覚はなかっただろう。
しかし、それも古文書の時代を知っていなければここまで昔の時代をリアルに表現できるはずもない。この喜兵衛という男はどんな人間だったというのだろう?
落ち武者がやってきた時代に、兄妹の悲劇があり、僧侶による暴行など、生々しさは目を覆いたくなるほどだった。
それをここまで忠実に書けるということは、まるで見てきたかのようではないか。
こんな光景、目の前に広がっていれば、まともに見れるというのは、精神にどこか異常をきたしていなければできないのではないかと思える。少しは暈かしでも入れないと、まともに見ることはできないだろう。
しかも、文章というのは読む人によって、かなりの違いが生じるものだが、喜兵衛の書き加えたと思しき部分は、誰が読んでも感じることに変わりはないような気がする。緒方の考えすぎだろうか?
「こんな生々しいリアルな本は、まるで見てきたようだ」
この発想は、緒方に一つの疑問を感じさせた。
「ひょっとして、自分が同じことをするという予感めいたものが、リアルな想像を掻き立てるのではないだろうか?」
まるで正夢を見ているような感覚だ。
そして、竜巻の件を読んでいるだけで、自分がまきこまれたかのように身体が宙に浮いてしまうかのようだった。
村長が同じ時代に、二度と起きない竜巻というのは、竜巻を起こすための滝つぼが、一度竜巻を引き起こすと、消えてしまうからではないだろうか。古文書の最後の方で、急に滝つぼの話が出てこなくなる。
最初の時代の女と落ち武者が身を投げた時、その時、落ち武者の一件のせいで、村長が変わっている。
そして、その後、自分を助けてくれた男に襲われ、二度目に身を投げた時。
その後は、原因に関してはハッキリとはしないが、竜巻が起こる時、滝つぼの話が出てくる。