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落ち武者がいた村

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 本当は、懐かしく感じたのは、自分が抱きしめる方ではなく、抱きしめられた方だった。その時男は女を抱きしめながら、自分が抱きしめられているような感覚にも一緒になっていたのかも知れない。どうやらこの男、自分が感じている思いとは別に、相手が考えていることも分かる体質だったようだ。
 自分が感じた暖かさ、それは遠い昔に抱きしめられて感じた暖かさだった。それが本当に自分の記憶なのか、疑いたくなるほど曖昧なもので、だいたい、自分が抱きしめられている時に相手の身体の暖かさを感じるなど、遠い昔の記憶であるはずがない。記憶が曖昧な過去の記憶というと、それは子供の頃の記憶に相違ない。それならば、余計に自分の記憶であるはずがないと思ったのだ。
――ひょっとして、これから感じるはずの思いを夢で見て、記憶の一部として意識しているものではないだろうか?
 とも考えられた。
 男は、昔からあまり余計なことを考えたことがなかったのに、この時だけは、なぜかやたらと頭が働く、まるで今までの分を一気に考えているようだ。
 今までは辻褄の合うような考え方をしたことがなかった。しかし、ひとたび考え始めてから、どんどんと辻褄が合ってくるように思えてくると、考えるのが楽しくなってきた。
「俺って、こんなに賢かったのかな?」
 と感じたが、一つの歯車が噛み合ってくると、どんどん辻褄が合ってくるという考えが芽生えてきても不思議ではない。
 そもそも歯車というのは、一つ一つの役割を持っていて、そして、一つとして同じ大きさのものがないという機械ほど、精密で数多くの歯車によって形成されたものなのだ。
 しかし、目的はあくまでも一つだけ。一つの形を作り上げるまでに無数の歯車を?み合わせるという考え方は、実際に歯車が噛み合っているところを見たり経験した人間にしか理解のできるものではないだろう。
 男は、抱きしめている女が妹であっても、他の女であっても。どうでもいいと思った。目の前にいる女が歯車を作り、噛み合わせて行った結果、自分という結論に辿りついたのだ。
 男の方も、手繰り寄せられる意識はなかったはずなのに、無意識に繋がった瞬間、一切の違和感が消えていた。
――出会うべくして出会った相手――
 それがこの場所だったのだ。
 目の前にいる女は、やはり妹だった。しかし、ここで男を求めている女は、この時だけは男の妹ではなかった。
――妹でありながら妹ではない――
 この感覚は以前に感じたことがあった。
――そうだ、子供の頃に、蹂躙された妹が見せた冷徹な表情――
 どこに感情があるのか分からないと言った表情、それはまさしく、
――兄の知らない妹の、もう一つの顔――
 と言ってもいいのではないだろうか。
 背中に男の暖かさを感じた妹は、黙って下を向いたままだった。猫背は相変わらずで、兄の手の甲を自分の手で覆い、さらには、背中に兄の暖かさを感じていた。
 兄が妹の背中に暖かさを感じているのに、妹も背中に兄の暖かさを感じる。お互いに暖かさを感じるというのは不思議な感情だが、なぜかその時お互いに、
――自分が感じている暖かさを、相手も感じてくれているに違いない――
 という思いを同時に抱いていた。
「お兄ちゃん」
 妹は、もう一度そう呼ぶ。兄も妹を抱きしめながら、妹の名前を囁こうと思ったのだが、声が出なかった。
――あれ? どうして声にならないんだ?
 妹は兄の返事を待っているはずなのに、
――声にならないなど、どうしてなんだ?
 と、思って焦れば焦るほど、声を発することができない。
 この思いも以前に感じたことがあった。
――そうだ、これは夢に見たことだった――
 それがいつの夢だったのか思い出せない。最近のことだったのか。かなり前だったのか。少なくとも、妹が苛められていたのを見たあの時よりも後であることに違いはない。なぜなら、声に出せないのは、あの時、妹が苛められているのを見て見ぬふりをしてしまったことへの戒めだと思ったからだった。
 焦っている兄を横目に、妹はゆっくりと後ろを振り向いた。ニコリと微笑んだその表情は、今までに見たこともないような顔だった。
――無垢というのは、こういう表情を言うんだろうか?
 男は、思わず微笑み返す。声にならないもどかしさは確かに残ったが、すでに焦りは消えていた。
 そして、女は、猫背のまま、男の正面に座り直したのだ。
 女は目を閉じ、唇を突き出す。これが接吻というものを期待している女の顔であることは男にも分かった。
 男は唇を近づけて、重ねてみた。柔らかく暖かい唇が自分の全身の血を激流に変えるほどの緊張感であることを、男は初めて知った。しかも、これはお互いに納得の上での行動であり決して開き直りではないことも分かっていた。
 男の右手が抱きしめていた背中から離れ、首筋を撫でていた。
 一度も女を愛したことがないのに、無意識の行動だった。だが、それが女の悦びに代わるのだと、男はそこまで分かっていなかった。
 ビクンと震わせた首筋に、一瞬緊張が走ったが、男が首筋を撫でるようにすると、身体の力が抜けていくように、こちらにしな垂れてくるのを感じた。綺麗に化粧の施されたその顔を覗き込んでみると、
「明らかに知らない女性だ。でも……」
 と、疑問符の残るその表情に見覚えがあったのだ。
 遠い昔の記憶の中に引っかかっているその表情は、子供の頃の妹だった。辱めを受けているのに、赤らんだその顔には光沢があり、仄かに頬は赤らんでいた。その時の記憶としては、綺麗だという印象があった。自分の妹で、しかも、まだ子供なのに、綺麗だという発想が浮かんでくること自体、自分でも信じられないものがあったのだ。
「化粧でもしているようだな」
 もちろん、子供が化粧を施しているはずもない。それでもその次に感じたのは、
「妹に化粧をさせたら、こんなに綺麗なんだ」
 と、化粧をしているわけでもないのに、化粧をしているのと同じ感覚になって見ていたのだ。
 男は、大人の女性が化粧をしているのを見ても、決して綺麗だとは思わない。むしろ素面の方が綺麗に見えることもあるかと思っていた。特に自分の母親は化粧をしない人だったが、時折、綺麗だと思うことがあった。それと同じ思いを妹に抱いていたに違いない。そうでなければ、紅潮した顔に浮かんだ恥じらいの表情に対して、
「綺麗だ」
 などと感じることはないはずだからである。
 ただ、目の前の女性に恥じらいは感じられなかった。逆に男を誘っているのは分かっている。今まで女性と親しくしたことなどない男にとって、自分を誘っている相手の態度は、この上なく心地よいものだったに違いない。有頂天になり、身体が宙に浮いて感じられたことだろう。
 口づけがどれほどの時間続いたのか。自分でもよくは分からなかった。唇を離した時、呼吸を荒げてしまっていたことで、結構長かったように思えたのだが、一度深呼吸をしただけで、すぐに収まったのを見ると、呼吸が荒くなったのは、精神的なものだったに違いない。
 唇を離して、女を再度見ていると、その顔を見ることができなかった。長い黒髪が顔の前に誰下がっていて、その表情を垣間見ることはできない。まるで幽霊のようだ。
作品名:落ち武者がいた村 作家名:森本晃次