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落ち武者がいた村

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 山に入っていくと、鳥がバタバタと羽根の音を震わせて、甲高い奇声を上げて飛び立っていった。
「おや?」
 その時に、男は何か不思議な感覚を感じたが、それが一体どこから来るものなのか分からなかった。
「気持ち悪いな」
 と思ったが、とりあえずは、その状況に身を任せるしかなかった。
 下から鳥が飛び立って行ったのを確認しようと上を見上げると、一本ずつがまっすぐに天に向かって伸びている細い木が、葉を生い茂らせながら伸びている。下から見ていると、上に行くにしたがって狭まっていくような錯覚を感じるので、一気に方向感覚がなくなってくるのを感じた。
「俺は今、どこから来て、どっちに行こうとしているのだろう?」
 急に分からなくなった状況を思うと、
「上なんか見るんじゃなかった」
 と感じた。
 そういえば、山には人を迷わせる魔物がいて、
「入り込んではいけない人間が入り込むと、二度と出られない」
 というような話を聞いたことがあった。
 急に山の中に入ってしまったことを後悔した兄だったが、後は先ほど見つけた女性を探し出すしか方法はなかったのだ。
 最初は何とか小さいながらも山道と思しき道があったが、進めば進むほど、道がどれなのか分からなくなってきた。
「迷ってしまう」
 そう思うと、余計に山に迷い込ませる魔物を感じずにはいられなかった。
「まさか、さっきの女がその魔物なんじゃないだろうか?」
 そう思えてきた。
 後姿だけが頭の中に残像として残っているが、彼女の顔は想像できないまでも、その女が淫靡な感情を持っている女性のように思えてならなかった。
 それは、山に迷い込んで途方に暮れなければいけないはずの自分に対して、不思議と淫靡な感覚がイメージできてしまうことで思うようになった。
「ここには、異様な匂いが立ち込めている」
 そう感じると、男は匂いが自分の理性と方向感覚を狂わせているのではないかと思えてきた。
 確かに、山道に入った瞬間から匂いが違った。しかも、山独特の匂いではないものを感じた。
 山独特の匂いとは、木々を削った時に感じる樹汁がその元であった。しかし、男が感じた匂いは、どこかいい匂いだと思えるものだったが、次第にその匂いに、酸味が感じられるようになってきた。
 その酸味がなければ、淫靡な感情とは無縁だったかも知れない。しかし、ひとたび淫靡な感覚を感じてしまうと、そこから逃げることはできない。
 ただ、この匂いは、淫靡な汁の匂いだった。
 もっとも、兄はまだ十五歳。好きになった女の子もいないほど女に関しては未熟で、これが淫靡な匂いなのかどうか、分かるわけではなかった。
 だが、最初に感じた甘いいい匂いが、次第に酸味を帯びてくると、
「どこか懐かしい感じがする」
 と、頭を抱え始めた。
「どこでだったんだろう?」
 と、場所を思い出そうとしたが、思い出せるものではなかった。次第にその感覚が懐かしいということで、かなり昔のことだったのではないかと感じたのは、それからすぐだったのだろうか?
 普段感じたことのない初めて感じるはずの匂いに懐かしさを感じることで、時間の感覚がマヒしてくるのも感じていた。
 男は、その匂いが、まわりからしてくるものだと思っていたが、どうやら違った。ある一定の方向からしてくるのを感じると、その方向に進んでみることにした。少なくとも進んでいけば、そこにさっきの女がいると思ったからだ。
「女も匂いに誘われてやってきたのだろうか?」
 と思いながら進んでいくと、少し広くなったところに出てきたのを感じた。
 さっきまでは木々の生い茂った葉に包まれて、暗い道を通ってきたが、やっと明るさのある場所に辿りついた気がした。それでも、本来の明るさからは程遠い暗さだったのだが、兄には、そんなことは分からなかった。
 男は耳がツンとしてくるのを感じた。
 高山に登れば鼓膜が張ってくるのは分かっていたが、それとは少し違った感覚だった。さっきまで耳鳴りのように聞こえていた音が、急にしなくなったからである。唾を飲み込むと、耳の通りがよくなり、遠くまで聞こえてくる気がしたが、それよりも、想像以上に喧騒とした音がどこからか聞こえてきた。それが滝の落ちる音だということに、兄はなかなか気づかなかった。
 ゴーという音が遠くから聞こえてくるのを感じると、近くに滝があるということにやっと気づいた。兄は当然この村に滝があることは知っていたし、行ったこともあったのだが、正規の道を通ってしか行ったことがなかった。滝の音は聞こえてきたが、何といっても山の中のこと、聞こえてくるのはまるでやまびこのように響く音で、どっちの方向からなのか、それよりもどれほどの距離があるのかということすら分からなかった。
 もう一度上を見つめてみると、今度は、さっき聞こえてきた鳥の飛び立つ音が再度聞こえてきた。
 その時に、先ほど聞こえた奇声のようなものが聞こえてきたが、今度はその声を鳥の声だとはどうしても思えなかった。さっきは、いきなりでしかも一瞬だったのでそこまで考えが及ばなかったが、今度は二度目ということもあり、最初になんとなく感じていた疑問だったが、今度は曖昧に済ませてはいけないような気がした。
 不思議な感覚を持ったまま、兄は再度上を見上げたが、確かに方向感覚を失わせる何かが木々にはあるというのは最初と同じ考えだが、どこか微妙に何かが違っているという感覚に陥っていたのも事実である。
 不思議な感覚をいうものを持ったまま、意識の中で膨らんできたものが、飽和状態になりかかっていることに気づいていた。
「ここが終点なのかも知れない」
 この先に道があるかどうか分からなかったが、分かっているのは、
「俺はここから先に足を踏み入れることはないだろう」
 という思いだった。
 その思いの根拠に繋がっているものは、自分がこの山に入り込むきっかけを見つけた女性に、この場所で追いつくことができるという思いからだった。
 すると、果たして目の前に広がったスペースの端の方で、背を丸めるようにしてしゃがみこんだ女性が。無防備にもこちらに背中を向けていたのが見えた。その背中は何かを訴えるというわけでもなく、っこには自分しかいないと信じて疑わない気持ちが、背中を見ていると感じられた。
 兄は、その瞬間、「オトコ」になってしまった。後ろ向きで無防備な女を見ていると、襲いたいという衝動に駆られていたのである。
 今まで女性と手を繋いだこともない自分が、どうしてこんな気持ちになったのか、それが先ほど感じた不思議な感覚と、どこからともなく漂ってくる酸味の利いた甘い香りが成せる業であることに、兄は気づいていたのだろうか?
 すでに理性は吹っ飛んでいた。気づかれないように速やかに近づいているつもりだったが、目の前にいる相手になかなか近づけない。しかし、相手もこちらに気づく素振りもあるわけでもなく、
「まさか、分かっていてわざと無視しているのでは?」
 と思わせるほど、まったく後ろを振り返す素振りも見せなかった。そんな素振りに、わざとらしさを感じ、イライラし始めていた。これが男としての女性への感情の表れであることに兄は、気づいていなかった。
作品名:落ち武者がいた村 作家名:森本晃次