落ち武者がいた村
「金縛りに遭っていたのか?」
と思ったが、どうやらそうでもないようだ。確かに心臓はドキドキしていたが、動こうと思えばいくらでも動けた。ただ、その時に、
「逃げる」
という感情は存在しなかった。その場にじっとしていなければ、後は飛び出すかどうかだけのことだった。
妹が羽交い絞めにされている場所までの距離も微妙だった。飛び出していったとしても、相手は態勢を立て直して、こっちに向かってきたり、あるいは、何もせずに逃げ出すに十分な距離だった。
こちらに向かってくれば、勝ち目はない。
「飛んで火にいる夏の虫」
とはこのことだ。
逆に、相手が何もせずに逃げ出せばどうだろう?
その場に取り残された妹に、何もしてやれない兄貴である。まず、間違いなく気まずい雰囲気に包まれるだろう。そしてその気まずさはその時だけのとどまらず、二人の間に致命的な溝を作り出すかも知れない。そのことが兄には一番恐ろしかったのだ。
「いまさらながら、子供の頃のそんな話を思い出しても仕方がない」
と、兄は妹に、
――自分は何も見ていない――
という確固たる態度をとり続けていた。しかし、それは大人になっていくにしたがって、どんどん苦しくなってくるものだった。
「時は繰り返す」
という言葉を知ってか知らずか、身をもって知る時がやってくるなど、兄には想像もつかなかった。妹の方は、子供の頃のあの時から、どうしても身構えてしまうことが身についてしまったので、自分の中に残ってしまったトラウマを、うまく操作できないまでも、表に決して出すことはなかった。
妹は、十四歳になってから、急に女らしく感じられるようになった。それを兄は、
「誰か好きな人でもできたのか?」
と思うようになった。
最初は、ちょっとした気持ちの綻びに過ぎなかったが、次第に大きくなっていった。最初に綻びだけで終わっていれば、自分の本性に気づかなかったのかも知れないが、その時に感じた兄の思いは二つだった。それは、
「妹への恋心と、嫉妬」
だった。
正反対の感情ではあるが、
「長所と短所は紙一重」
というではないか。
紙一重というのは、正反対という意味も含んでいる。それが、この村にその後から伝わる「どんでん返し」というイメージに繋がってくるなどということを、知る由もなかった二人だった。
兄は、子供の頃、妹が苛められているのを見て、どうすればよかったのかということを、ずっと悩んでいた。
あの時は金縛りに遭ってしまったかのように身動きが取れなかった。そのために、見たくないと思うほどの冷徹な妹の顔を見る羽目になってしまった。
しかし、もしあの場面で立ち去ってしまっていれば、妹を見殺しにしてしまったという自責の念に押し潰されていたことだろう。何とか自責の念に駆られずに済んだのは、良きも悪きも、
「最後まで見守ることができた」
という気持ちがあったからだ。
「助けに飛び出さなくてよかった」
という思いは、ずっと持っていた。その思いは大人になっても変わらない。そういう意味では、その場を逃げ出すことをしなかったのは、間違いではなかったと思っている。
しかし、見たくはなかった妹の冷徹な顔、兄には何年経っても消えることのないトラウマになってしまっていた。
トラウマは、最初はどんどん大きくなっていった。だが、トラウマも頂点まで達したのだろうか、それ以上は、その上に天井があるかのように、上に行くことはなかった。自分の成長が天井に近づいてくるにしたがって、妹に対しての目が落ち着いてきたのを感じていた。
しかし、妹が十四歳になり、急に女らしさを感じられるようになると、自分の気持ちがそわそわしてくるのを感じた。
「妹は綺麗になった」
と感じることで、兄として嬉しいという気持ちよりも、
「そのうちに、他の男に」
という思いがおっかぶさってきた。
ある日、妹が山に入り、滝の近くまで来た時、少し広くなったエリアの端の方で腰を下ろしていた。
その日はたまたま隣村まで出かけていた兄が帰ってきた時、妹が山に入っていくのを見かけた。
この頃はまだ、隣の村と交流があり、兄だけではなく、村の男たちは、隣村に時々は出かけていた。隣村と言っても山を二つ越えなければいけないところにあり、ちょっと行ってくると言っても、一日仕事だった。
隣村から帰ってきた頃は、昼をだいぶ回っていた。滝のある山の中は、日差しがあまり入るところではなく、滝の存在もあって、湿気がひどく、あまり長居をする場所ではなかった。
兄は知らなかったが、妹は時々、滝のあるこの山に入っていた。湿気が多いせいか、村では見られない珍しい植物が生えていた。きのこの類も豊富で、ただ、中には毒性のあるものもあるので、よほど気を付けなければいけなかった。妹は、珍しい植物を見ていると、昔の嫌なことが忘れられるという思いがあり、時々やってきていた。滝の轟音に、風の強さに惑わされることのない、生暖かい湿気を帯びた空気。そこに何かしらの思い入れがあった。
この空気は、女性を淫靡な気持ちにさせるもののようだ。そして男性にも同じ効果があるが、男性は理性で何とか抑えることができるかも知れない。しかし、ひとたびタガが外れると、狂ったようになるのは男性の方かも知れない。
だから、ここに来るのはいつも一人だった。もし、他の女性が一緒にいれば、お互いに淫靡な気持ちになり、身体を貪りあうかも知れない。妹には、他に中のいい女性がいたが、彼女とは決してそんな関係になりたくなかった。下手をすると知られたくない過去の忌まわしい思い出を思い出さなければならなくなり、そうなると、自分がどのような精神状態になってしまうか、想像もつかなかった。
「ここは私だけの場所」
自分を癒すことができるのは、自分だけしかいないという思いもあり、そんな心境に入らせてくれる場所がここだった。他に誰か人がいれば、邪念が入ってしまい、自分の世界に入ることができない。自分の世界に人が入り込んでくるのは、無理やりでしかないと思っている妹にとって、
「もう無理やりという言葉は二度と使いたくない」
という言葉を身に刻ませるような断腸の思いだったに違いない。
兄は、妹が山に入っていくのを見て、最初は誰だか分からなかった。正直妹だとは思わなかった。なぜなら、子供の頃にひどい目に遭った妹が、一人寂しい山の中に入っていくなど、考えられないと思ったからだ。
「一体、誰なんだろう?」
興味本位で近づいてみた。
後姿だけで判断できるほど、山に入っていく妹を見た時は、かなり距離が遠かった。かすかに見えた姿が女性だと分かったのもすごいと思うほどの距離だった。
山に入っていく女の姿を追いかけて近づいてくると、あっという間に山に入る小さな道に辿り着いた。
「俺って、こんなに歩くのが早かったのかな?」
と思うほどで、近づいてみると、
「こんなところがあったなんて、ずっと今まで知らなかったな」
隣村に行くには、必ずここを通るので、結構頻繁に通っていたはずだ。確かに分かりにくい道ではあるが、横に逸れる山道を知らなかったというのは、少し迂闊だったのではないだろうか。