落ち武者がいた村
という思いとは別に、胸の奥にドキドキしたものが潜んでいた。まわりの喧騒とした雰囲気は耳鳴りとなって襲ってきて、次第に音が吸い込まれたようになってきた。薄い透明な空気の幕が張り巡らされていて、こちらからは相手が見えるが、向こうからは見えないのではないかとすら思えていた。
相手は気づくはずがないとは思いながらも、必死で身を隠している自分は、身を隠すことで余計に誰にも知られてはいけない秘密を握ってしまったようで、余計に胸がドキドキしてしまっていた。
妹が辱めを受けているのを見て、
「助けなければいけない」
という思いと、
「助けるために飛び出して行っては、今度は自分も妹も、どんな報復を受けるか分からなない」
という思いとが頭の中で交錯した。
戸惑っていながら、時間だけが去っていくと、飛び出すタイミングを完全に失ってしまった。
「もし、ここで飛び出せば、妹はあらわな姿を俺に見られたと思って、これから先、二度と口をきいてくれないかも知れない」
そんなことはできなかった。妹に兄としての尊厳を認めてもらえなければ、ここまで生きてきた意味も、そしてこれから生きていく意味もないとさえ思えていた。自分が妹のことを愛してしまったことに、その時、気が付いていた。
それだけに助けに飛び出せない自分が情けなかった。もう、自分のことを主観的に見ることはできなくなっていて、自分のことであっても、他人事のようにしか思えなくなっていたのだ。
「いや、誰か助けて」
妹は必死になってもがいている。声も荒げていたが、そんな妹をまわりの連中は、ニヤニヤ笑って見ているだけだった。
思春期にも満たない子供のやることなので、理性のようなものはなかった。あるなら、最初からイタズラなど考えるはずもないだろう。手加減など、まったくなかった。
子供たちのすることだから、大人が抱く猥褻な気持ちが頭をもたげているわけではないだろう。せめて、抵抗しようとする相手を羽交い絞めにして、抵抗しているのに、どうにもならない相手を見て楽しんでいる程度だ。
いや、それがもっとも罪作りなことである。苛めている連中に、相手のことを考えるなどという思いがあるはずもない。そんなことは苛められている方にも、苛めている方にも分かっていることだった。
それは、彼らに余裕がないからというわけでもなかった。余裕があるかないかということも分からずに、相手が必死になって拒んでいて、懇願している姿にゾクッとしたものを感じる。いわゆる
「サディスティックな感情」
というやつである。
彼らは、相手が必死になってくれなければ、気持ちは萎えてしまうだろう。苛めている行為そのものよりも、相手が懇願し、必死になって逃れようとしている姿を見ることが、快感であるに違いない。
それはまるで虫を苛めている姿に似ていた。
好奇心いっぱいの目は、無邪気に見えるが、その実やっていることは、虫を楊枝で突き刺したり、足や首をちょん切ったりしているのだ。
「天使の顔に悪魔の心」
まさしく、そんな感じだった。
武士が戦で相手と戦っているのとはわけが違う。相手が人間でなければ、別に悪いことをしているという意識はないのだ。
その顔が無邪気なだけに、そう考えると、いたたまれなくなってしまう。
それが普通の考えではないだろうか?
もし、虫を苛めている子供たちを他の子供が見ていたとすればどうだろう? 残虐性に身を震わせるだろうか? それとも、自分もその輪の中に入ってみたいと考えるでろうか?
普通の子供であれば、残虐性に身を震わせるだろうと、以前、虫を苛めている場面を陰から見ていた時、兄はそう感じた。
しかし、目の前で苛められているのが実の妹、好きになりかかっていることを自分でも自覚していたはずなのに、どうして、苛められているのを見て不快に思うどころか、胸がドキドキしてきてしまうのか。分かるはずもなかった。
そんな兄が、そばから見ていたことに、妹は途中で気が付いた。
妹の方としても、ここで兄に自分が分かってしまったことを気づかれたくないという思いがあった。
これも、兄の気持ちと似たところがある。
下手に騒ぎ立てて、恥ずかしい姿を見られたと思わせたくないということ。そして、心のどこかで、
「私を見て。お兄ちゃんになら、いいわ」
という思いがあることに気づいていた。
しかし、そのことを絶対に兄に知られてはいけない。知られてしまうと、自分の知っている兄ではなくなってしまうと思ったからだ。
今ここで兄に覗かれていることに関しては嫌だとは思わないくせに、自分が見られたいという感情だけは、絶対に知られたくはなかった。
「私って、兄のことが好きなのかしら?」
と、立場こそ正反対なのに、行き着く先は同じ感受性であった。そのことを苛められている本人である妹は、身体全体で感じていた。
「これって、女の悦び?」
一瞬ではあったが、妹は感じた。妹のまわりを見る目がまったく変わってしまったのは、そのことを感じてしまったからだ。
しかも、まわりにいるのは、憎きいじめっ子たちである。これから先、自分がどのように振舞えばいいのか、まったく分からない。ただ、そのことを考えることができるほど、苛められながら、精神的に落ち着きを取り戻していたのは確かだった。
――いつまでも私の身体を貪って楽しんでいるようだけど、こっちはさっさと冷めてしまったわ――
と、抵抗する気も失せていた彼女は、そう考えていた。
「ついに観念したか」
と、男たちは、彼女がすでに自分の気持ちを先の方に持っていっていて、彼らの見えない寸前まで来ているというのに、まだ同じところにとどまっていた。
「本当にバカだわ」
と男たちを見る目は冷静を通り越し、冷徹になっていた。
「今なら、この男たちを殺しても、罪悪感の欠片もないかも知れないわね」
と感じていた。
様子を見ていた兄も、妹が完全に冷めてしまっているのを感じていた。
男たちの姿が無様に見え、情けなささえ感じられた。
ただ、妹を見ていると、ここまで冷徹な雰囲気になるなど、想像もできなかった。
黄昏たように、遠くを見る目に哀愁が漂い、さらに今まで見たことのないような威圧感を感じた。しかし、
「この威圧感、これが本当の妹の姿なのかも知れない」
と感じた。
最初に感じた。ゾクッとした感情よりも、今はゾッとくる感情の方が強くなった。気持ち悪く思えたが、
「本当に助けなくてよかったのだろうか?」
助けられなかった自分に対して、情けなさを感じていたが、この表情を見てからその後は、
「助けなくて正解だったのかも知れない」
と思った。
「こんな妹の顔、見たくなかった」
という感情が表に出ているはずなのに、どうして助けなくて正解だと思ったのか、そこには、
「相手が妹だ」
という感情があったからだ。
これがもし血のつながりのない女の子だったら、女の子が妹と同じような冷徹な表情になったとしても、助けなくて正解だったなどとは思わないだろう。
「あれは妹だから、冷徹に見えたのかも知れない」
と思った。
他の女の子だったら、その場から立ち去っていたに違いないと感じたからだ。