落ち武者がいた村
村人はほとんどが農民で、教育を受けることもなく、農業に必要な知識以外は、ほとんどと言って持ち合わせていない。字を書ける人はおろか、読むこともままならない人が多かった。そんな村にあって村長の家系だけは、教育も村長としての心構えも家系として受け継がれていたのだ。
落ち武者の事件が起きてからも、この村は他の村との関係を、ほとんど断っていた。ただ、領主からの年貢の取り立ては他の村と同様に厳しいものだった。それでもこの村は年貢を納めることに困ったことはそれほどなかった。平和すぎるくらい平和な村だった。
村長は、
「年貢を納めるのにわが村が困らないのは、他の村との接触を断っているからだ」
といつも話していた。
もちろん、根拠があるわけではない。しかし、実際に他の村と隔絶されてしまったことで、農民である村人も、他の村との接触を恐れていたのだ。生まれてから死ぬまで、一度も村を出たことがなく、他の村に住んでいる人は、違う人種のように思っている人も少なくなかった。
ただ、村の掟として厳格に、
「他の村の人と接触したり、この村から出てはいけない」
というものはなかった。誰もが、
「暗黙の了解」
として、各々自覚していただけである。
さらにこの村では、
「村長が変わると、竜巻が起こる」
という言い伝えがあった。
竜巻が起こったからといって、誰かがその被害に遭うというわけではなく、実際に起こった竜巻に巻き込まれた人の話は伝わっていない。しかし、竜巻が起こってきたのは事実のようで、残っている古文書には、竜巻のことが書かれていた。
その中に、一人の女性が下から舞い上がった竜巻によって助けられた話が残っているが、それが若い僧に襲われて身を投げようとした女の子孫だったと書かれている。つまりは、落ち武者の子孫でもある。
古文書では、その話を思い入れを持って書いているわけではなかった。
「まるで他人事」
と思えるような話になっていて、それを読んだ喜兵衛は、
「あれ?」
と疑問に感じていた。
「ということは、この落ち武者が書き始めた古文書を引き継いで書いている人は、落ち武者の世襲ではないんだ」
ということになる。
喜兵衛は、古文書を読み進んでいくうちに、自分の頭が次第に柔軟になっていき、今まで生きてきた世界が本当に狭い範囲でしか考えることができなかったという事実を受け入れていた。
それは古文書の世界に入り込んでいるからであり、気の遠くなるような月日を費やして作成してきた内容を、たった数日で読み込んでくるのだから、頭の中が柔軟になっても当然だと思うようになっていた。
しかし、逆も言える。
何十年も費やして書かれてきたものを、一気に味わっているのだから、点ではなく線で捉えた時、実に薄っぺらいものであるということを自覚していなかった。
柔軟でありながら薄っぺらいということは、そこには「隙」のようなものが存在し、穴だらけの精神状態だということに気づいていなかった。
事実と目されていることだけを注視して、それ以外の発想は皆無である。本当は頭の中が柔軟になってきたのだから、もっと別の発想が生まれてきてしかるべきなのに、それがなかった。
それは、なまじ古文書の内容に集中してしまっていることで、時系列に対しての感覚がマヒしている。先を急ぐあまり、書かれている内容の間が、一定にしか思えていなかったのだ。
つまりは、一年後のことであっても、三十年後のことであっても、味わっている感覚は、同じ期間でしかないのだ。
古文書という本の世界に書かれていることなので、その感覚は当然のことであるし、書いた人間も同じかどうか、今となっては分からない。同じ人間であっても、実際に何十年も生きてきたという歴史が生々しく自分の中に刻まれているのだから、時系列の発想は薄いのかも知れない。
読んだ人間とすれば、それ以上に感覚がマヒしていることだろう。本当であれば、時系列を大切に感じて読まなければ、致命的な誤解を抱いたまま読み進んでしまったり、大切なことを見逃したことで、
「歴史が何を伝えたいというのか?」
ということが分からないままになってしまう。
喜兵衛は最初に古文書を見つけて中身を読み始めた時、
「歴史的な重みを感じる」
と、柔軟ではなかった時であるにも関わらず、読み始めるにあたっての気持ちはしっかりしていた。
それは、その時、喜兵衛自身が「謙虚」な姿勢で、古文書を見ようとしていたということの証でもあった。
それでも喜兵衛は古文書を読みながら、
「この話の内容には、いくつかの共通点や、定期的な法則のようなものがある」
ということに気づいていた。
その一つが、
「村長の世襲は昔からあり、村長が変わった時には、竜巻が起こっていたんだ」
ということだった。
竜巻というキーワードは、ずっと頭に引っかかっている。実際に最初、この村を離れる前から、竜巻が起こるということを意識していた。
理不尽とも思えた言い伝えで、
「男は、必ずこの村の女を嫁に迎えなければいけない」
というものがあったが、
その時、頭のどこかで竜巻が起こった現象が頭に焼き付いていたような気がした。
別に、竜巻の話を他の誰かから聞いたわけではない。村の女性を頭に思い浮かべると、なぜか瞼の裏に竜巻が舞い上がるのが見えていた。
舞い上げているのは女の身体であり、どうして竜巻に舞い上げられているのか、そして、その女が最後どうなったのかまではハッキリしない。
「きっとハッキリさせてはいけないんだ」
という思いに駆られていた。
その思いを村を離れてから忘れていたが、古文書を見ることで思い出してきた。
この古文書には、結構曖昧なところが多かった。途中の内容には引き込まれているのに、最後にはどうなったのか、ハッキリと記されていないのだ。古文書を書いた人にも分かっていないのか、それとも、曖昧にすることに何か意味があるのか分からない。
しかし、想像としては後者だと思っていた。
確かに最初は、結末が分からなかったことで曖昧にしか書けなかったが、そう何度も結末が分からないということが続くとは思えない。
そう思うと、本当は曖昧にしたくないのかも知れないが、
「ここでハッキリと書いてしまうことで、何かの災いが起こるのではないか?」
と、古文書製作を継承した人は感じたのかも知れない。
「ハッキリさせないことが、暗黙の了解」
そんな掟のようなものが、この古文書には存在していて、しっかりと継承されているのかも知れない。
そんな中で、竜巻が発生したことに対しては頻繁に書かれていた。
しかし、これも具体的なものではなく、形式的に発生したことを伝えているだけだった。それでも、ここまで頻繁に書かれていると、
「何か意味があるのではないだろうか?」
と感じたとしても不思議ではない。
しかも、それが村長の交代時期に必ず起こっているということを見ると、ただの偶然で片づけられるものではないはずだ。交代した村長が、その竜巻の存在を知っていたかどうか、それも曖昧だった。
「新しく就任した村長には分かっているのかな?」