落ち武者がいた村
その一番の理由は、その古文書が最後まで書かれておらず、ある日の途中で止まっていたのだ。読み進んでいくうちに、古文書を読んでいるはずなのに、いつの間にか誰かの日記を読んでいる錯覚に陥っていた。それだけ、書いた人間の感情や思い入れが含まれていたからである。
古文書であれば、公平な目で時代の証人として書き残すものが普通である。しかし、そこに感情が入り込むと、それはもはや古文書や歴史書ではなく、ただの日記にすぎないのだ。
だが、日記として読み始めると、作者の感情を感じるのだが、その感情が冷え切っているように思えた。感情が籠っているくせに、実に冷静な目で見ているのだ。
それはあくまでも、書いている本人の想いが描かれている主人公の目を通して感じている書き方だった。主人公の想いには感情が感じられないにも関わらず、時代に翻弄されていたのだ。
古文書を読んでいると、村人が自分のいた頃と違って、まったく別の世界からやってきた人たちに思えてきたのも分かる気がした。漠然としてだが、古文書を書いた人間にもそのことが分かってきた。そして、書いている本人でさえ、途中から自分の中に、別の人格が生まれてきたのを感じたようだ。
そして最後の方には、
「書いている自分が信じられない」
という思いを抱きながら、それでも書き続けているのが分かった。
それなのに、ある日の途中で文章が止まってしまっている。それを見た時、喜兵衛は胸騒ぎを感じた。
「この人は、ここで息絶えたのではないだろうか?」
と感じた。
息絶えたのだから、作者がこの古文書を地中に埋めることはありえない。この矛盾を喜兵衛はこの古文書を読む前に感じたのだった。
この村には落ち武者伝説があるのは、住んでいた時に聞いたことがあった。
しかし、そのことに深く思い入れることはなかった。
「落ち武者伝説のことを下手に調べたりすると、落ち武者の霊に呪い殺されるらしいという噂がある」
と聞いたことがあった。
落ち武者が一人の女性と滝つぼに身を投げたという話が伝わっていたのだ。
この古文書には、その後の事実が克明に記載されていた。
心中を図った時に一緒に身を投げた女性は若い僧に助けられ、お寺で匿われていたが、そのうちに乱心した僧に襲われ、結局最後は、滝つぼに身を投げたという内容だった。
女としては、遅れてしまったが、やっと落ち武者のいるあの世に行けるという思いがあったのだろう。それにしても、助かったとはいえ、一度身を投げて死という恐怖を嫌というほど味わったはずである。それなのに、もう一度死を覚悟できるなど、喜兵衛には信じられないことだった。
喜兵衛は自分が死を意識したことなどなかったが、一度死を覚悟して、本懐を遂げることができなかったら、二度と死ぬことを意識するなど、できるはずはないと思っていた。
ただ、古文書を見て喜兵衛には、もう一度死を覚悟した女性の気持ちが分かるような気がした。これも自分の中での精神の矛盾であり、どうしてそんなことを感じられるのかと考えると、
「俺の中に、もう一人違う人格が潜んでいるのかも知れないな」
と感じた。
それは、自分が二重人格だという意識ではない、。まったく違う人間が自分の中に入り込んでいるという感覚だ。
「そういえば、同じような思いを以前にもしたことがあるような気がするな」
と思ったが、それは今の新しく埋め込まれている記憶の中にあるものではない。失った記憶の中に一筋の光が差して、照らしているその場所が、同じような思いを感じたというものだったのだ。
そのことと、この村に戻ってきた時に感じた、
「どんでん返し」
のイメージとが重なっているようだ。
「きっと、これを書いた人、そしてこの古文書を地中に埋めた人は、少なくともそのことを分かっていたのかも知れない」
と思った。
どちらの人間の方がより一層どんでん返しをイメージできたかというと、やはり地中に埋めた人であろう。この古文書を見て、その内容と「どんでん返し」の事実両方を冷静に見ることができるのは、作者であるはずはないからだ。
ただ、喜兵衛は別のことも考えていた。
「どんでん返しというのは、一気に変わってしまうのだが、そんなことが本当に可能なのだろうか?」
一気に変わってしまわないと、時間差があってしまえば、まだ変わっていない正気な人が疑問に感じるはずだからである。それを何も感じずに「どんでん返し」を受け入れられるのは、一気に形勢が変わってしまったことを意味しているのだろう。
そのためには、
「十分な準備期間が存在したに違いない」
と感じた。
この作者もそうだったのかも知れない。
死を迎える時に、自分にどんでん返しが起こることを察して、最後まで書けなかったと思えてきた。
「最後まで書かないことが、この人にとっての、ラストシーンなんだ」
と感じたのだ。
「このことと、わしの記憶がないことと、何か関係があるのかも知れない」
確かに村から出ることは幕府の政策や、村の掟でも禁止されていた。文章にも法度として記載されている。そういう意味では村を出ることは立派な犯罪だった。
しかし、喜兵衛は事実として村を出た。何が一体村を出るきっかけになったのか、自分では覚えていない。
――思い出さないことが幸せなのかも知れない――
と、思い出そうとする自分を否定してみたりした。
だが、村を出ることを欲していたのだとすれば、理屈が合わないわけではない。
元々、こんな村に嫌気が差し、出たいと思っていたのかも知れない。ひょっとすると、この古文書を見たりして、村にとどまることの正当性を自分に見出すことができなかったのではないか。
古文書の存在を覚えていたのも、内容を見て、
「初めて見たような気がしない」
と感じたのも、記憶がないまでも、自分の中に差し込んだ一筋の光を、もっと広くできる可能性を秘めているのではないかと思ったからだ。
喜兵衛は、少しずつ古文書を読み進んでいた。古文書で気になるのは時々出てくる、竜巻の存在だった。
最初に竜巻の件があったのは、一度死を覚悟して死にきれず、今度は助けてもらったはずの若い僧から襲われ、死を覚悟した時のことだった。
彼女にしては、竜巻であろうと、滝つぼであろうと、
「死ぬことさえできれば、それでいいんだ」
という思いがあっただろう。
なまじ死にきれず、前のように生き残ってしまうと、
「もう一度死を選ぶのも地獄、かといって、生きていくのはもっと辛いことなのかも知れない」
と感じていた。
彼女の中では、
「進むも下がるも地獄」
という思いだったに違いない。
竜巻が起こったのは、女が二度目の死を覚悟した時だったと古文書には記されている。滝つぼに呑まれながら、女は下から突き上げてきた竜巻に呑み込まれ、宙に浮いたまま、なかなか落ちてこない。女にしてみれば、
――このまま楽になりたい。早く死なせてほしいのに――
と、宙に浮いた状態を、恨めしく思ったに違いない。
喜兵衛は、古文書を読んでいるうちに、次第に女の気持ちになって読めるようになっていた。
「この古文書を書いた人も、同じことを感じたのかも知れないな」