落ち武者がいた村
自分だけが残ってしまったことに罪悪感を感じていたが、このまま死を選ぶこともできなかった。そして、村を出ることで、自分が何を恐れていたのか分かる気がしてきた。
「俺の家族は、竜巻にやられたんだ」
村を出てから頻繁に夢を見るようになったが、覚えている夢は、いつも竜巻に巻き込まれる夢だった。
「俺が怯えていたのは、竜巻だったんだ」
竜巻というのは、ただの竜巻ではなく、
「吹き飛ばすことで、その家が存在していた事実まで、人々の記憶から吹き飛ばすという効果を持った竜巻だ」
という意識だった。
本当の竜巻というものを見たことがないくせに、夢ではあんなにもリアルだった。ハッキリと下から上に上がっていく竜巻だった。そのことを喜兵衛は、まったく不思議に感じることはなかったのだ。
元々竜巻の原理など知る由もなく、考えたこともなかったが、夢に見た竜巻は、いかにも下から上に舞い上がるものだった。何といっても、実際に竜巻など見たこともない。最初から、
「竜巻を目にすることなど、生きているうちに一度あるかないかのことではないだろうか?」
と思っていたのだ。
だが、それだけに夢に見た竜巻が明らかに下から上に舞い上がっているというのは、よほど自分の思い込みが下から上へのもので固まってしまってしまっていたり、あるいは夢で最初に見た時がその印象だったので、その思いが頭に凝り固まってしまったのかのどちらかであろうが、どちらにしても、下から上に舞い上がるという発想には疑う余地などなかったに違いない。
喜兵衛は、新しい村に移り住むと、そこで一人の女性と出会った。それは今までいた村にはいなかったような女性で、新鮮な気がしていたのだ。彼女の両親は、なぜか喜兵衛のことを気に入っていた。喜兵衛は、住んでいた村を出ると、そこで今までの記憶をほとんど失っていた。自分の住んでいた村からはかなり離れた村に辿り着き、そこで力尽きて、意識を失ったのだ。それを助けたのが、その女性だった。喜兵衛が見つかったその場所は河原で、静かに流れる小川のほとりに打ち上げられたように倒れていたのだ。その川の上流が例の滝であることを、喜兵衛は知らなかったが、どうやら喜兵衛が村から抜け出して彷徨っている時、無意識に川を伝って、下流へ下流へと歩いてきたのだ。それを本能と言わずして何というだろう?
「神のみぞ知る」
とでもいうべきであろうか。
倒れている男性を助けた娘は、実に無垢な娘だった。年齢的には、十代後半くらいだろうか。農家の娘で、普段から農家の手伝いだけをしていた。
ちょうどその時は、川に水を汲みに来ていて、偶然、喜兵衛を助けたのだが、彼女の中では、ただの偶然とは思えないところがあった。だが、偶然ではないなどと人に言っても信じてもらえるはずもなく、その思いは自分の胸だけに収めていた。
――この人と、会えるのは運命だったんだわ――
娘は彼が現れることを知っていた。いや、予感めいたものがあったというのが本心だろう。彼女は密かにキリスト教を信じていた。もちろん誰にも言わない。自分だけの胸に収めていた。だから、村にも密かにキリスト教を信じる人が時々集会を開いていたが、彼女は参加することはなかった。集会に参加している人たちの誰もが、まさか彼女がキリスト教を信じているなどと、知る由もなかったのだ。
実際には、彼女のような人は少なくない。歴史的に記録が残っていないので、誰にも知られていなかったのだろう。逆に、もし誰か一人でも自分だけが信じているというのが発覚してしまうと、他にもいないかということを幕府や藩が血まなこになって探すに違いない。その記録が残っていないということは、隠れキリシタンの中には、個人だけの人がいたということを、隠しきったのだろう。
現代では、そのことに気づいた学者もいるようで、その研究が水面下で行われているという話もあるが、信憑性には欠けるものだった。厳格なキリシタン禁止令の中、完全に隠しきれるかどうかが焦点だが、その存在の有無については、賛否両論があってしかるべきであろう。
彼女は、本当は喜兵衛を助けたくなどなかった。まわりに対しては純真無垢な少女を演じていたのは、天真爛漫な性格を見せつけることで、自分だけの秘密を持っているなどないとまわりに印象を植え付けるためだった。だから、なるべく人に近づいているふりをして、絶妙な距離を保っていたのだ。それなのに、倒れている人をそのままにしておくのはキリスト教の精神に反する。助けてしまうことが自分にどのような仇となって返ってくるか分からないが、見過ごすわけにはいかなかった。だが、村の男性と結婚することを思えば、彼のような素性も知らない男性、しかも少し訳アリの男性が相手だと、隠れ蓑にはちょうどいいという打算があったようだ。彼女の思惑に完全にはまった形になった喜兵衛だが、喜兵衛の方も知られたくないことがあったのだから、お互い様であった。喜兵衛にとっても、曲りなりではあったが、不幸中の幸いと言ってもいいのではないだろうか。
結婚してからの二人は、お互いに偽装結婚であることは分かっていた。ほとんど会話もなく、お互いに子供を欲することもなかった。
喜兵衛は、それでも、農家の仕事を一生懸命に手伝っていた。傍から見れば、別に何の変哲もない普通の夫婦だった。お互いに会話はなかったが、それでもまわりの誰も、疑問に感じる人はいなかった。
結婚してから五年が経ち、女の両親はことごとく、病でこの世を去った。
喜兵衛は、結婚してからちょうど五年が経ったある日、自分の過去を話し始めた。今まで何も話をしようとしなかったのは喜兵衛の記憶がほとんど失われていたからであって、彼女も分かっていたつもりだったので、ビックリしていた。
喜兵衛が語った記憶には、間違いはなかった。
自分が住んでいた村の話。そして、村には掟があり、自分が掟を守ることができず、村を出た話。そして、村に残した家族が滅んでしまった話……。
しかし、妻の方は、その話を聞いて、疑問に感じていた。
――どうして、村を離れてしまったこの人に、家族が本当に滅んでしまったということが分かったのかしら?
冷静に考えれば分かる理屈であったが、喜兵衛の話には信憑性があった。
それは理屈ではない。喜兵衛の説得力によるものだが、彼女には通用しなかった。
――もし、私がキリシタンでなければ、何の疑問も感じなかったかも知れない――
彼女はキリシタンであることで、
――私は、他の人とは違うんだ――
と思っていた。
それは自分自身に対しての意識の違いというよりも、何かを信じるということの重さが何にも優先するという思いを持っていたからだった。
喜兵衛が、自分の妻に自分の話をしたのは、自分の記憶が戻ったことで、誰かに自分のことを話さなければいけないと感じたからだった。自分の記憶が完全に戻ったことで、記憶を失ってからの五年間に生まれた新しい記憶とが葛藤を始めた。始めた葛藤によって喜兵衛は、
――このまま黙っておくことはできない――
と感じたのだった。