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落ち武者がいた村

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「あの時の神主の笑顔とそっくりだ」
 と感じたのかも知れない。
 どれが最初だったのか分からないが、その時の順番の違いが彼にとって大きな問題であることは間違いない。
「私にも他の人生があったのかも知れないな」
 と感じたが、それを感じた瞬間、それまでに感じたことのない恐怖を感じた。若い僧にとって初めて感じた「死」というものへの予感だったのだ。
 自分が「死」を意識していると感じた時、
「あの女のせいだ」
 と思った。
 滝つぼに身を投げた時、少なくとも死を意識したはずだ。本人は忘れているようだが、その思いが自分に伝染したのではないかと思ったのだ。
 だが、それは一瞬のことで、それを自分に対しての戒めではないかと思ったが、これから自分が感じることへの戒めだとは思わなかった。それだけ彼は落ち武者と身を投げた女に対して本気で恋をしてしまっていたのだ。
 最初こそ純愛だったのかも知れないが、僧は次第に「オトコ」に変わっていった。それまで、
「禁欲こそ、功徳の道」
 とばかりに、精進と修行の毎日だった自分を納得させる以前に、何も疑わない性格にしてしまったのは、
「私は俗世間の人間とは違うのだ」
 という、優越感のようなものがあったからだ。
 もちろん、本人は優越感だなどと思っていない。だからこそ、精進できてきたのだ。女を助けたことで自分の中に疑問を抱かせるものが浮かび上がってこようとは思いもしなかった。
「私はまだまだ修行が足りないんだ」
 という思いもないわけではない。その思いがジレンマを作り、自分を苦しめることになる。
「自分を納得させるために苦しむなんて理不尽だ」
 と思うようになると、自分が女を好きになってしまい、邪な気持ちを抱いていることに気づくようになった。
 彼は真面目な僧だった。自分に邪な気持ちが宿った時点で、自分は僧として修業を積む資格はないと思っていた。なぜなら、それだけ自分に対して邪な気持ちを抱くなど信じられないと思うほど、自分を信じていたからである。
 彼は大切なことを忘れていた。
「一番自分のことを分かっているのは自分のはずなのだが、本当に自分が一番自分のことを信じられるかというと、一概にそうは言えない」
 ということである。
 さらに、
「自分のことを信じる時には、『信用する』という言葉を使うが、他の人から信用される時というのは、『信頼される』という言葉に変わる」
 と考えていた。
 たかが、言葉尻の問題なのかも知れないが、彼にとって、「信用」と「信頼」とでは言葉のニュアンスがかなり違った。それは彼に限ったことではないが、言葉尻の違いに違和感を感じた人がいたとしても、それ以上詳しく考える人は稀で、彼はそんなことを考えているのは自分だけだと思っていたが、まさしくその通りだろう。
 特に戦国の世というのは、現代とは違う。そういう意味では、この若い僧は、現代の人間に通じるような考えを持っていたに違いない。
 考えられるだけ考えてみたが、結局はどこかで行きどまってしまって、考えていることは堂々巡りを繰り返すしかなかった。男は苦悩の末、考えることを自分で拒否する道を選んでいた。
 そうなると、進む道は一つしかない。本能の赴くままに行動することだった。
 男の本質は、今まで真面目で実直だと思っていた性格とは似ても似つかぬもので、一本緊張の糸がプツンと切れると、その本質は意外と悪知恵の働くものだった。女の方とすれば、
「お坊様なのだから、ご無体なことはしないだろう。しかも、身を投げた私を助けてくれた恩人なんだから」
 と、完全に信用しきっていた。
 いや、信頼していたと言ってもいい。相手に対して信用しているだけでは、どこか心の中に、まだ疑念が残っているのだが、信頼しているところまでくると、よほどのことがない限り、疑うことをしない。
 つまり裏切られてショックが大きいのも、信頼していた相手から裏切られた時だ。信用してしまったことを後悔するのは、信用するところまでは自分の意志であり、そこから信頼に結びつくには、自分の意志だけではどうにもならない相手の目に見える行動や言動が疑う余地のないほどの信憑性を帯びていなければ成立しないことに違いない。
 僧であるという立場と、一度は死を決意して、助けられた命であるということを感じた時点で、女には絶対的な負い目があった。
「この男を信用しなければ、このまま生きていけない」
 と思ったのも事実で、一度死んでしまおうと思い、覚悟を決めた女。
「そう何度も死のうなんて覚悟、持てるものではない」
 と自分に言い聞かせ、僧にもそういって、笑って見せた。彼がどこまで彼女の笑顔を信じたか分からないが、最初の頃の女は、僧から信用される必要などないと思っていた。
 女の気持ちを知ってか知らずか、僧は自分が女から信頼されているという意識を持っていたことが欲望の抑えになっていたのに、今度はそれを逆に利用しようと考えていた。
「この女はもう私に逆らえないのだ」
 自分に身を委ねるしかない女は、気持ちはとっくに萎えてしまっていて、自分に服従するものだと思っていた。しかも、彼女はマゾ体質で、自分はサディスティックなところがあると思い込んでいたのだ。
 なぜなら、今まで自分にサディスティックな部分などないと思っていた自分が、この女を世話するようになってから、頭の中に抱く妄想は、サディスティックなものだったからだ。
 それを男は、
「この女の性が、私の眠っていた性格を呼び起こしたのだ」
 と、彼女の存在を、火に対する油のような存在に思っていた。
 男がどのように悪知恵を弄したのか、自分でも覚えていないが、巧みに彼女に言い寄って、契りを結んだ。
 彼女は、男が思っていた通り、マゾ体質だった。それが男を狂わせたのも事実だった。
 もし、少しでもマゾ体質なところが見えてさえいなければ、男も彼女に対してサディスティックな部分を見せなかっただろう。ただ彼は真正のサディスティックな性格ではなかった。自分がサディスティックな部分を表に出したことを意識していなかった。
 女は、サディスティックな部分が見えた男に対して、過剰に反応した。必死になって抵抗したのである。しかし、悲しいかな男の方はそんな彼女の態度に、
――これも、マゾ体質の成せる業なんだ――
 と思い込んでしまった。
 そうなると、お互いの気持ちは平行線、交わるわけもなく、行き着く先は悲惨な結末しかない。
 女のショックは計り知れない。男に襲われて必死に抵抗している間に頭をよぎったのは、死を覚悟して落ち武者と一緒に滝つぼに飛び込んだ時のことだった。その時は必至で無我夢中だったことで、感覚がマヒしていたはずだった。しかし、助かってみて、まさかその時の感覚を思い出すことになるなど、思いもしなかった。
「もし思い出すことがあるとすれば、それは本当に死ぬ時だわ」
 と思っていた。
 それが、いつどのような形で訪れるのか分からなかったが、せめてあの時ほどの恐怖と不安に駆られることのない、
「安らかな死」
 を、望んでいたに違いない。
 しかし、心のどこかで、
「あの時死んでいた方が幸せだったかも知れない」
作品名:落ち武者がいた村 作家名:森本晃次