孤独たちの水底 探偵奇談12
そういう意思をこめ、伊吹はあの櫛を差し出した。これは、遠い遠いいつかから届いた忘れ物。いなくなったひとを、失った時間を取り戻せるもの。だけど、未来を進むためには、もう、必要ない。これがなくても、自分たちは進んでいける。生きていけるはずだ。
「伊吹なら、そう言うと思った。俺は、ここで消えよう」
あの夏の瑞が、そう言って寂しそうに笑った。そして櫛を受け取る。
「それがおまえのこたえか」
天狗の問いに、伊吹は力強く頷いた。後悔は、ない。しない。
作務衣姿の瑞が、滝の方へ戻っていく。その背中を追ってはならない。二度と求めてはならない。だけど。
「…瑞ッ!」
伊吹は呼び止めた。これが最後。もう二度と会えない。だから。
「ちゃんと思い出せなくて、ごめんな…!」
振り返った瑞が、こみあげてくる感情に耐えるように表情を歪ませた。涙声で伊吹は続ける。
「おまえのこと、思い出せなくて…!一緒に生きた時間のことを、思い出せなくて…ごめんっ…!」
瑞は伊吹に会うそのためだけに、こうして越えてはならない境界線を越えてきたというのに。伊吹は思い出してやれない。彼との絆も。彼との記憶も。なにも。
「……いいよ!」
一瞬俯いた瑞が、顔を勢いよく顔をあげて笑った。快活な笑顔だった。曇りを晴らすような。
作品名:孤独たちの水底 探偵奇談12 作家名:ひなた眞白