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di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア

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 自らの両手が犯した罪の重さが、掌の上だけでは収まりきれず、指の間からこぼれ落ちて止まらない――そんな錯覚をメイシアは覚える。
「すみ、ません……」
 自然と、言葉が漏れた。
 タオロンの命を駆け引きの駒にした。彼の生命を脅かし、恐怖を与えた。それが善か悪かと問われれば、今までの彼女の人生からは、悪だという答えしか導き出せない。
 だから、決してやってはいけなかったこと――……?
 メイシアの澄み渡った湖面のような瞳から、透明な涙が流れた。口元は、嗚咽を漏らさぬよう、強い意志の力で結ばれている。
「藤、咲……?」
 彼女に向かって、罵声を浴びせようとしていたタオロンは、突然のことに狼狽した。無骨な彼は女の涙に弱かった。
「けれど、……たとえ、あなたに恨まれても……」
 細い声が響く。
「……それがどんなに罪でも、私は何度でも同じことを……します。――ルイフォンのために……!」
 結果も伴わなかった。まったくの無意味だった。
 けれど、この行動に……。
 ――後悔はない……!
 メイシアは、タオロンの黒い瞳を臆することなく見返した。
「お前……」
 今にも壊れそうな、華奢な泥まみれの少女に毅然と言い放たれ、タオロンは毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。
 彼女が言っていることは自分本位で、彼にとっては許しがたいことである。けれど、彼女の一途な気持ちは、むしろ彼には清々しくさえ思えた。立場的には敵対せざるを得ないが、心情的には近いものを感じたのだ。
「……貴族(シャトーア)の小娘というのは、面白いですね。何を言い出すか、見当もつきません」
「《蝿(ムスカ)》……!」
 タオロンは体を巡らし、怒りの矛先を変えた。
「ずっと、聞いていた、ぞ」
 刈り上げた短髪を《蝿(ムスカ)》に向け、メイシアに向けていた分の怒りも上乗せして、タオロンは憤りをたぎらせる。
「それは、そうでしょうね。クラーレは神経毒。意識は、はっきりしていたはずです」
「おまっ……」
「何が言いたいのですか? 小娘に頭を下げて、あなたを助けるべきだったとでも?」
《蝿(ムスカ)》は、ぷっと吹き出した。白髪頭を揺らし、口元に手を当てて嗤う。
「あり得ませんね。あなたは襲撃に失敗した挙句、非力な子猫に縛り上げられた、愚かなクズです。斑目の一族でもない私が、助けてやる義理はないでしょう?」
「お前の、助けなんて、期待してねぇよ! けど、よ。藤咲、メイシア、煽ったろ!? 俺を襲わせて、何、考えて、やが……る」
 怒号を上げて荒れ狂うタオロン。しかし、《蝿(ムスカ)》は彼のことは相手にせず、ずっといたぶり続けている小さなか弱き小鳥に声をかけた。
「貴族(シャトーア)のお嬢ちゃん。あなたは、致命的な勘違いをしていたんですよ。食客が主人の一族に従うべき? そんな決まりはないのです。身分に守られてきたあなたには、理解できないかもしれませんがね?」
《蝿(ムスカ)》はおもむろに、足元に横たわるルイフォンの襟首を掴んだ。そのまま無造作に彼を引きずりながら、メイシアのほうへと向かう。
 人をひとり引きずっているとは思えないような足取り。相変わらず足音はなく、ルイフォンの体が地面と擦れる音だけが響く。
 彼女から数歩離れた位置まで来ると、《蝿(ムスカ)》は、ルイフォンの襟首から手を放した。どさり、と重みのある音を立て、支えを失ったルイフォンの上半身が砂を巻き上げる。彼の口から、苦しげな呻きが漏れた。
「ルイフォン!」
 メイシアは叫び、這うようにして彼の元へ寄ろうとした。
 その鼻先を、ざらりとした砂粒が遮る。今まで音を立てなかった《蝿(ムスカ)》の靴先が地を鳴らし、彼女の行く手を阻んだ。
 憎悪の視線で、メイシアは《蝿(ムスカ)》を見上げると、彼は嬉しそうに嗤った。
「いい顔ですね。惨めな弱者の顔です」
「……っ」
「あなたは私を侮辱した――これでも私、怒っているんですよ」
 そう言って、《蝿(ムスカ)》は地面に横たわるルイフォンの腹を踏みつけた。ルイフォンは激痛に、声にならない声を上げる。
「ルイフォン!!」
 編んであった髪はすっかりほどけ、癖のある長髪が砂地に広がる。猫のような好奇心溢れた瞳は閉じられ、別人のようなルイフォンの姿に、メイシアは涙を浮かべる。
「あなたに対しては小僧を、小僧に対してはあなたを傷つけるのが効果的。そういう関係があって初めて、脅迫というものは成り立つんですよ。少しは勉強になりましたか?」
 勝ち誇ったように《蝿(ムスカ)》が嗤う。真昼の太陽を背にした《蝿(ムスカ)》の黒い影は、残忍な悪魔そのものだった。
「やめろよ」
 太い声が響いた。両手を後ろ手に縛られたまま、憤怒の表情を見せるタオロンがゆっくりと立ち上がった。
 怒気を放ち、まるでメイシアを庇うかのように、彼は、彼女と《蝿(ムスカ)》の間に割って入る。まだ、わずかに麻痺が残るのか、踏みしめた足元は多少おぼつかないが、憤激の言葉は滑らかだった。
「おやおや。斑目のあなたが、鷹刀の味方をするのですか?」
「俺は、胸糞悪ぃことが嫌いなだけだ」
「ほぅ? ではどうするおつもりで?」
 タオロンは、くっ、と唇を噛んだ。
「何も考えていませんでしたね。だからあなたはイノシシ坊やなんですよ」
「黙れ……食客風情が!」
「あなたは、斑目の総帥には逆らえない」
「……逆らうわけじゃねぇよ。けど今回、鷹刀ルイフォンは関係ねぇ! …………藤咲メイシアは……俺が一刀のもとに殺す。それでいいだろ!」
 赤いバンダナの下の額に皺を寄せ、タオロンが言い切った。
 しばし考えこむように押し黙った《蝿(ムスカ)》だったが、「いいでしょう」と、ゆらりと身を翻す。音もなくタオロンの背後に回り、刀を一閃した。
「……?」
 タオロンの狼狽と共に、ぱらり、と青い飾り紐が地面に落ちた。彼の両腕を拘束していた、ルイフォンの髪結いの紐である。
「所詮、私は『食客風情』ですから、あとは斑目のあなたにお任せしましょう。総帥の命によって、罪もなき、か弱き娘を殺すがいい」
《蝿(ムスカ)》は嗤いながら、タオロンの大刀を拾い上げ、持ち主に放った。
 ずしりと重い刀を、タオロンは無言で受け止める。その質量に、傷つけられた右腕の傷口が新たな血を流したが、彼は奥歯をぎりりと噛み締めただけであった。
 それを見届けた《蝿(ムスカ)》は、場所を譲るべく、メイシアの脇を抜ける。その際――すれ違いざまに、彼女にぼそりと漏らした。
「……《蛇(サーペンス)》とあなたの間で何があったのか、非常に気になるんですけね。仕方ありません」
「え……?」
 メイシアが疑問の声を上げたが、彼はそのまま通りすぎ、高みの見物を決め込むべく、建物の外壁に体を預けた。
「藤咲メイシア……」
 タオロンの刈り上げた短髪から、玉の汗が流れる。乾いた風が吹き抜け、熱を奪い、彼の肌を冷やした。
「なんか、さっきと立場が逆になっちまったな」
 切なげで真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉えていた。赤いバンダナの下の、人の良さそうな小さな黒い瞳。だが、その上にある太い眉は、意志の強さを示している。