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di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア

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 4.渦巻く砂塵の先に−1



「《蝿(ムスカ)》! この場を立ち去ってください!」
 メイシアの声が、廃墟の外壁に木霊する。
 ひび割れた地面から見上げるルイフォンには、彼女がまるで戦乙女のように見えた。
 泥で汚れた頬は紅潮し、擦り切れた服の隙間から覗く膝は血が滲んでいる。けれども、彼女は輝くように美しい。
 心が、魂が煌めきに満ちている。それは優しく、温かく、力強く――彼を魅了してやまない。
「さぁ!」
 か弱き腕を懸命に振り上げ、彼女は《蝿(ムスカ)》に撤退を迫った。長い黒髪が風に煽られ、乱れ舞うさまが、彼女の気勢をより一層引き立てた。
 従わないのなら、この両手の大刀を、一気に振り下ろしてやる!
 この足元に横たわるタオロンの首を、一刀両断にしてやる!
 黒曜石の瞳が、そう威嚇した。
《蝿(ムスカ)》は無機質なサングラスの顔を彼女に向け――何も言わなかった。
 ただ無言。沈黙を貫く。
 動かぬ《蝿(ムスカ)》に、メイシアの頬を冷たい汗が流れた。
 ……彼女の両腕は、ふるふると痙攣していた。
「あなたは斑目の食客です。ならば、斑目の名を持つ彼は、あなたにとって守るべき主人の一族です。退(ひ)きなさい! そして、二度と私たちの前に姿を現さないでください!」
 華奢な体躯に対して、その大刀は鉛のように重たい。
 それは《蝿(ムスカ)》にも一目瞭然だった。
 彼は、無謀な貴族(シャトーア)の娘の、あまりにも愚かしく滑稽な行為に、わずかながらの敬意を払うつもりで口を閉ざしていたのだが、それでも失笑をこらえ続けることは不可能だった。
 抑えきれずに低い笑い声を漏らし、淡々とした侮蔑の言葉を投げつける。
「いつまで、その馬鹿でかい刀を振り上げたままでいられますかね? あなたの細腕では、もってあと数分がせいぜいだと思いますよ」
 引きずりながらやっと運んだほどの大刀である。一瞬でも持ち上げられたなら、それは既に奇跡だった。
《蝿(ムスカ)》の示唆したとおり、メイシアの筋肉は憐れな悲鳴を上げている。それでも、彼女はじっと《蝿(ムスカ)》を見据え続ける。
 非力な貴族(シャトーア)の娘である自分が、力技で威嚇するなど馬鹿げていると、メイシアにも分かっていた。待っていれば、鷹刀一族が必ず助けに来てくれることも。
 けれど、ルイフォンの危機は今、この瞬間なのだ。どう考えても、助けは間に合わない。ならば、そばに居る自分がなんとかするしかないのだ。
 メイシアが一方的に睨みつけること、しばし――。
 不意に、強い風が吹いた。砂塵を巻き上げ、彼女の目を傷つけ、大刀の幅広い刀身を嬲っていく。
「あ……」
 大刀に振り回されるかのように、メイシアの上半身が大きく傾いた。
「駄目っ!」
 もつれる足に踏ん張りをきかせ、彼女は歯を食いしばった。倒れてなるものかと、自らを奮い立て、持ちこたえる。
「ほぅ、貴族(シャトーア)の箱入り娘にしては、なかなかやりますね」
《蝿(ムスカ)》の乾いた拍手が響いた。
「実に、面白い見世物です」
 メイシアの目に涙が滲む。それが砂に依るものか、たかが食客の身の《蝿(ムスカ)》に弄ばれているという悔しさ故か、彼女自身も判然としない。
「《蝿(ムスカ)》! あなたには主人に対する礼はないのですか!?」
 両腕で大刀を掲げたまま、泥まみれの頬を伝う、その涙を拭うことのできぬ屈辱の中で、《蝿(ムスカ)》をきっ、と睨みつけ、メイシアは毅然と言い放った。
「……貴族(シャトーア)の小娘。あなたは、人を殺めるとはどういうことか、分かっていますか?」
「え……?」
「肉を斬り裂く、あの固くて柔らかい感触。脳を揺さぶる、むせ返るような血の匂い。その人間の生涯を、自分の手で握り潰す、あの瞬間――」
 畳み掛けるような言葉に、メイシアの顔が青ざめていく。
「……あなたに、できますか?」
 メイシアの額から脂汗が流れた。どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえてくる。それは彼女自身のものか、生命を脅かされているタオロンのものか、あるいは負傷しているルイフォンのものなのか……。
 メイシアの全身が震えた。けれど、大刀の柄を握る手にだけは、よりいっそうの力を込める。
「できます!」
「では、やってみてください」
《蝿(ムスカ)》が、そう言い、挑発的に口角を上げた。
 メイシアは目線をタオロンに落とした。
 浅黒く光る、筋骨隆々とした立派な体躯。その太い腕は、彼女などあっという間に絞め殺すことが可能だろう。
 だが、彼は今、薬で動くことはできず、無防備な体を彼女に晒している。
 本当に殺す必要はないのだ――と、メイシアは自分に言い聞かせた。少し傷をつけるだけ、と。
 これは駆け引き。いざとなれば、メイシアはタオロンを殺害することも厭わないのだと、《蝿(ムスカ)》に信じさせるための示威行動。
 深い傷にする必要はない。ほんの少し、首筋を軽くかする程度のところに刀を落とし、脅しをかければいい……。
 激しい呼吸に胸が上下する。
 メイシアは、柄を握る両手に力を込め、一気に振り下ろす――!
「や、めろっ……!」
 その瞬間、かすれたような野太い声が、確かに響いた。
 驚いたメイシアは、思わず肩をびくつかせたが、重力加速度の勢いを得た大刀は止まらない。研ぎ澄まされた刃は、主(あるじ)たるタオロンの浅黒い皮膚を滑らかに斬り裂き、乾いた地面に突き刺さって土塊を跳ね上げた。わずかに遅れて、深紅色の飛沫が散る。
「――――!」
 メイシアは目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。
 動けないはずのタオロンが、動いた。
 首筋をかすめるはずが、肩口をしっかりと捉えていた。
 柄から両手に伝わってきた肉を斬る感触が恐ろしく、そして、おぞましかった。あまりの恐怖に彼女は膝から崩れ落ち、大刀を取り落とす。
 タオロンの上腕から、どくどくと血が流れていた。血溜まりがメイシアに襲いかかるかのように近づいてきて、彼女は悲鳴を上げながら後ずさる。
「くっ……。藤、咲……、よく、も……」
 呂律の回らぬタオロンが、後ろ手に縛られたまま、地面でもぞもぞと動き、メイシアに向かってくる。あとには赤い軌跡が残り、そのたびに彼は太い眉をしかめた。
「もう、動けるんですか。化物並みの回復力ですね」
《蝿(ムスカ)》が、皮肉たっぷりに感嘆の溜め息を漏らす。タオロンは、ぎろりと眼球を動かして怒りを示すと、再び蒼白な顔をしたメイシアを目線で捕らえた。
「……っ!」
 タオロンの、かっと見開かれた黒い目を正面から見た瞬間、メイシアの体は彼の怒気に鷲掴みにされ、動けなくなった。
 歪んだ太い眉、苦痛に引きつる頬……。そして、腕を彩る血糊の鮮やかさ――。
 苦痛を与えれば、怒りと憎しみが返ってくる。当然の図式に気づきもしないで、自分の内部の生理的嫌悪にしか心が向いていなかった。愚かで自己中心的な自分こそが、おぞましい存在なのだと彼女は悟った。
 生まれて初めて、他人に傷を負わせた。皮を破り、肉を裂き、血を吹き出させた。
 それは、耐え難い痛みだろう。
 相手もまた、同じだけの報復を望むに違いない……。