di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア
彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、《蝿(ムスカ)》を睨むように見上げた。
「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」
「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」
唇を噛んで押し黙るルイフォンに、《蝿(ムスカ)》は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。
「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」
まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、《蝿(ムスカ)》がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。
「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族(シャトーア)ですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」
「な……!?」
「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」
《蝿(ムスカ)》が声を立てて嗤う。
それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。
「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」
《蝿(ムスカ)》が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。
彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。
この事態は、俺が招いたのか――?
「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」
「応援?」
サングラスの奥で、《蝿(ムスカ)》の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。
「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」
《蝿(ムスカ)》は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。
タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。
「メイ、シア……」
ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。
《蝿(ムスカ)》が懐から携帯端末を取り出す。
そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。
気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。
カランビットナイフを振りかぶり、肉をえぐろうと、《蝿(ムスカ)》の懐に入る。
《蝿(ムスカ)》を止める!
何者も、メイシアを追わせはしない――!
追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない一撃。
自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。
向かってくる刃に対し、《蝿(ムスカ)》は涼しい顔で、体を大きく弓なりに反らせた。ルイフォンの刃は胸元をかすめ、上着の繊維を虚しく斬り裂く。
《蝿(ムスカ)》は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。
「……っ!」
凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、《蝿(ムスカ)》の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。
「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」
肩で息をするルイフォンに、《蝿(ムスカ)》が嘲りまみれの賞賛を贈る。
しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。
「ぐはっ……!?」
胃への強い毀傷の感触。《蝿(ムスカ)》の足先が腹部にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。
……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。
ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。
「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」
地を転げ、もがき苦しむ彼に、《蝿(ムスカ)》の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。
――その動きが、途中で止まった。
一転して、《蝿(ムスカ)》の様相が変わる。
「……一体なんの真似ですか……?」
《蝿(ムスカ)》の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。
転がっているルイフォンには目もくれず、《蝿(ムスカ)》は、その人物を迎えるべく踵を返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、《蝿(ムスカ)》は不気味な薄ら笑いを向けた。
やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。
はあはあと、荒い呼吸。
同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。
もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。
メイシア――!
今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。
長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。
彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。
メイシア、来るな――!!
ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。
そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。
《蝿(ムスカ)》が、「ほぅ?」と、眉を上げた。
「あなたが、それで戦うおつもりですか?」
――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを封じたあと、彼の刀は離れた位置に放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀ではルイフォンが持ち歩くには不向きな武器であったためだ。
メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。
それでも、メイシアは前に進んだ。
大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。
もし《蝿(ムスカ)》がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、《蝿(ムスカ)》は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。
「その細腕で、何ができると言うのですか?」
作品名:di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア 作家名:NaN