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di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア

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 3.怨恨の幽鬼−3



 風が、荒廃した街中を吹き抜ける。
 乾いた青さの空に向かい、砂塵が舞う。
 倒れかけの電柱から垂れ下がった電線が、悲しげな呻きを上げた。
《蝿(ムスカ)》の無情な刀身は、ルイフォンを冷酷に見下ろしていた。それは、サングラスに隠された主の視線に代わり、鋭く狙いをつけているかのようだった。
「遠くで人の気配がしますね。面倒が起こらないうちに終わらせましょう」
 事務的にすら聞こえる声で《蝿(ムスカ)》が言う。事実、この男にとって、ルイフォンの首をはねることなど、作業のひとつに過ぎないのだろう。
 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
 メイシアは、どのくらい遠くまで逃げられただろうか。賢いあの少女のことだから、あるいは、どこかに身を隠しているかもしれない。迎えが来るまで、どうか無事でいてほしい――。
 彼女を逃がすため、そして自分自身のため、ルイフォンはこのまま潔くやられるつもりなど、毛頭なかった。
 師匠のチャオラウは、ルイフォンに戦うことよりも守ること、逃げることを教えこんだ。身の軽さなら、兄弟子で年上の甥のリュイセンにも引けは取らない。体が思い通りに動く状態なら、《蝿(ムスカ)》の一刀を避ける自信はある。だが……。
 ――ルイフォンの目が、すぅっと細まり、獲物を狙う猫のように、静かにじっと《蝿(ムスカ)》の様子を窺う。
「ほぅ、悪巧みをしている目ですね。その有様で、なお……。面白い」
《蝿(ムスカ)》の頬が、ふっと歪んだ。そして、何を思ったのか、掲げていた刀をくるりと円を描くようにして下ろす。小花をあしらった鍔飾りが、鞘口にかちりと抱きとめられた。
「《蝿(ムスカ)》……!?」
「提案があります」
《蝿(ムスカ)》は意味ありげに、腰に手をやった。地に伏したルイフォンへの威圧感を計算し、胸を張り、軽く顎を上げる。
 ルイフォンは、《蝿(ムスカ)》のサングラスの下の表情を読み取るべく、目を眇めた。
 情報の収集と分析――それが彼がもっとも得意とする武器であり、《蝿(ムスカ)》が直接的な攻撃を仕掛けてこないのなら、こちらにも動きようがある。息を殺すようにして、次の言葉を待った。
「私と手を組みませんか?」
「な……!?」
 先程、食らった一撃以上に、息が止まる思いがした。一体、どういうつもりで《蝿(ムスカ)》がそう言うのか、ルイフォンには皆目見当もつかない。
「何を驚いているんですか。私たちの対立の原因はあの小娘。けれど、小娘はあなたを見捨て、助ける気もない。ならば、あなたが義理立てする理由はないでしょう」
 あまりの提案に、思考が停止しそうになるのをこらえ、ルイフォンは冷静に《蝿(ムスカ)》を見やる。この男は斑目一族の食客で……。
「お前は鷹刀に恨みがあるはずだ」
「ええ、憎いですよ」
《蝿(ムスカ)》の声が一段、低くなる。幽鬼の闇が濃くなり、気配を感じさせない彼が存在感をあらわにする。
「鷹刀の俺と、鷹刀を憎むお前が、仲良く手を組むなんてあり得ないと思うんだが……?」
「何をおっしゃるんですか。あなたに拒否権があるとでも?」
《蝿(ムスカ)》が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。彼の腰で細身の刀が揺れた。
「なるほど……」
『手を組む』というのは口先だけで、命が惜しければ従えということだ。
 活路を見いだせるかと期待しただけに、落胆しかけたルイフォンだったが、ふと気づいた。
 殺さずに活かすというのなら、つまり《蝿(ムスカ)》は、憎き鷹刀の名を持つルイフォンに、なんらかの価値を見出しているということになる。それは、相当に酔狂なことのはずだ。
 ルイフォンの情報屋としての本能が、そこに探るべき何かがあると訴える。
「あなたを捨て駒にした小娘のために無駄死にするよりは、私について私の寝首を掻く機会でも窺ったほうが、よほど建設的だと思いますよ?」
《蝿(ムスカ)》が、悪魔の囁きで甘く誘う。
 その手を取ることなど、まっぴらごめんであるが、今はまだ振り払うべき時ではない。圧倒的な優位に立つ《蝿(ムスカ)》が気を変えれば、即座にルイフォンの頭と体は泣き別れするのだ。
 ルイフォンは、慎重に言葉を選んだ。
「……一応、筋は通っているな。俺にとっても悪い話じゃない」
「物分かりのよい敗者は清々しいですね」
 さげすみきった、挑発的な物言いだったが、反応すれば《蝿(ムスカ)》を喜ばせるだけなのは分かっていた。それに、本来、前線に立つのが仕事ではないルイフォンが、戦闘での負けを悔しがる必要もない。大切なのは、守りたいものを守り抜けること。そう考えられるだけの余裕が、彼には戻ってきていた。
「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」
《蝿(ムスカ)》は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。
「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」
 嫌らしい笑みを漏らす《蝿(ムスカ)》に、ルイフォンは息を呑んだ。
 まただ――。
《蝿(ムスカ)》がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、《猫(フェレース)》の名を持つクラッカーだ。だが、《猫(フェレース)》の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。
 これは偶然か…………否。
「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」
《猫(フェレース)》と同じ規則の暗号名。つまり――。
「《七つの大罪》の関係者だな」
《蝿(ムスカ)》は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。
 ルイフォンの脳裏に、かつて《猫(フェレース)》を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。

「《七つの大罪》の《悪魔》が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」

「《猫(フェレース)》の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」
《蝿(ムスカ)》は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて《蝿(ムスカ)》の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。
「少しの間、眠るだけです」
 ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。
 ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。
 この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。《蝿(ムスカ)》の言う『悪巧み』の目だ。
「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」
 そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。
「ひとつ、教えてほしい」
「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」
 そういう《蝿(ムスカ)》の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。
「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」
《蝿(ムスカ)》は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。