di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア
3.妖なる女主人−1
唐突に、通りの景色が変わった。
貧民街にほど近い場所に位置しながら、そこから先の区画は繁華街の中心部よりよほど小奇麗に飾りたてられていた。
ここは特別な遊興施設であり、貴族(シャトーア)もお忍びで遊びに来るからだと、ルイフォンが説明する。あえて治安の悪いところにあるのも人目につかないようにするためで、反対側の道からなら車で来ることもできるという。
ルイフォンが立ち止まったのは、蔦を這わせた瀟洒なアーチの前だった。アンティーク調の館に誘(いざな)うように、煉瓦の敷石が奥へと続いている。
「あ、すみません。まだ準備中……きゃあああ! ルイフォン!」
ルイフォンが扉を開けた瞬間、黄色い声が響いた。
小柄な少女が頬を薔薇色に染めて、箒を抱きしめていた。ぱっちりとした目の愛らしい少女である。高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が、彼女の興奮に呼応するかのように揺れていた。
「よぅ、スーリン」
ルイフォンがそう言うや否や、彼女は近くのテーブルに箒を立てかけ、ルイフォンの胸に飛び込んできた。
「逢いたかった……!」
彼女はそう言って瞳を潤ませ、爪先立ちになりながら、両手でルイフォンの頭をぐっと引き寄せた。そして、そのまま自然な動作で彼の唇に深く口づけた。
メイシアは、身じろぎもできなかった。
目の前のできごとは、銀幕の中の物語に思えた。
スーリンの小さくて華奢な手が、ルイフォンの頭からそろそろと降りてきて、彼の背中を必死に捕まえていた。彼のシャツに無数の皺が刻まれ、それだけの時を彼女が待っていたことが伝わってきた。
その姿は決して淫らなものではなく、むしろ美しいとさえ思えた。
しかし、ルイフォンは、すっと顔を横に向ける。
「……悪いな、今日は俺、客じゃないんだ」
「分かっているよ。シャオリエ姐さんから聞いているもの。でも、私はルイフォンに逢えただけで嬉しいの」
口づけたときと同じように、自然な動きで体を離し、スーリンは可愛らしく、はにかむような笑顔を見せた。目元だけが、少しだけ切なそうに歪む。
それから、扉の前で固まっているメイシアに無邪気に微笑んだ。
「初めまして! メイシアさん」
スーリンはメイシアを歓迎するように、もっと中に入るようにと右手で示した。陰鬱な場所を想像していたメイシアは、当惑を隠せないでいた。
店内は洒落た喫茶店のようであった。
窓格子の蔦の隙間からは、穏やかな日差しのベール。ゆったりとしたソファーが互いに譲り合うように配置され、各テーブルに飾られた小花が可憐な様子で来客を待ちわびていた。
カウンターの棚には、さまざまな色と形の瓶がひしめき合う。アルコールの出る店だと分かるのだが、今はきらきらと煌めくステンドグラスのようであった。
「驚いた顔をしているわね。ここが……娼館に見えないから?」
スーリンがつぶらな目でメイシアの顔をぐっと覗き込む。メイシアは黙って頷いた。
「高級娼館といえばいいのかな? ここに来るお客は貴族(シャトーア)も多いのよ」
「おい、スーリン、余計なお喋りはあとだ。シャオリエはどこだ?」
ルイフォンがメイシアの肩を抱いて、スーリンの前から引き寄せる。
スーリンは何か言いたげに瞳を揺らめかせたが、すぐに笑みを作った。
「シャオリエ姐さんは奥の部屋にいるわ」
「分かった」
ルイフォンが事務的に応え、歩を進めようとしたとき、スーリンが彼の腕を掴んだ。エプロンのポケットから小さな紙片を出して、彼の掌の中に握らせる。
「これ、私のシフト表」
ルイフォンはうろんな目をして、その紙を一瞥し、尻ポケットに無造作にねじ込んだ。
「今度来るときは、お客さんで来てね?」
行ってらっしゃい、とスーリンに手を振られ、ルイフォンとメイシアは奥の部屋に入った。
その人は、ゆったりとソファーに腰掛けて待っており、ふたりが入室すると、にこやかに手招きをした。
「突然、呼びつけて悪かったわね」
とても綺麗な人だ、とメイシアは思った。
緩く結い上げた髪に、襟元までの長めの後れ毛。開いた胸元を薄手のストールでふわりと覆い、自然に崩した装いからは独特な色香を放っていた。
さきほどトンツァイの店で少年たちから聞いた話によると、彼女がこの地区に現れたのは、三十年くらい前だという。もちろん、少年たちが生まれるよりも前のことだ。だから、この証言はトンツァイをはじめとする繁華街の大人たちによるもので、そのとき彼女は二十歳前後の美しい少女だったという。
よって現在は、五十歳近いはずである。しかし、とてもそうは思えなかった。薄化粧すら野暮に思える、きめの整った肌は、せいぜい四十前後。下手したら三十代半ばにすら見えた。
ルイフォンがソファーに座ると、シャオリエはさりげなく足を組み替える。それを見た彼が眉を寄せると、彼女は実に嬉しそうに笑った。
「呼びつけて悪い、だなんて、ちっとも思ってないだろ?」
「さすが、ルイフォン。よく分かったわね」
「で? なんの用だ?」
「ほら、メイシアさんも座って」
単刀直入に訊いてくるルイフォンを無視して、シャオリエはメイシアに声をかけた。
彼女はこちらを見上げ、メイシアと正面から目を合わせた。その瞬間、メイシアの背中を悪寒が走った。アーモンド型の瞳の奥の、かすかな煌めき。敵意とは違う、けれど強い何かを感じた。
メイシアは一瞬動きを止めたが、立ったままでいるわけにもいかない。座ろうとして、そこでまた戸惑った。
今の場合、どう考えても、シャオリエの隣ではなくルイフォンの隣に座るのが妥当である。しかし、ルイフォンはソファーの中央にどっかりと座っている。しかも足まで組んでいるのである。
しばし躊躇したのち、彼女はルイフォンと同じソファーの端に、申し訳程度にちょこんと腰掛けた。
「なるほど。ミンウェイの言っていた通りね」
「質問の答えになってないぞ。って、ミンウェイに電話したのか?」
「質問は一度に、ひとつまで、よ」
人差し指をぴんと立て、子供をあしらうように、シャオリエが言う。
「イーレオが新しい愛人を作ったと聞けば、気になるのは当然でしょう」
シャオリエの言葉に、メイシアは引っ掛かりを覚えた。シャオリエにとってイーレオはどんな存在であるのか、疑問に思わずにいられなかった。
「こういうときは、屋敷にいるミンウェイに訊くのが早くて正確。けど、それより本人を見るのが一番、ってことよ」
メイシアの内心をよそに、シャオリエとルイフォンは話を続ける。
「なんで、俺がこいつを連れてくると分かったんだ?」
「お前が、彼女を特別扱いしているからよ」
「まぁ、こいつは綺麗だからな」
平然と言ってのけたルイフォンに、しかし、シャオリエは違うとばかりに首を横に振る。
「そんな理由じゃないでしょう。……お前って、イーレオとそっくりだから分かりやすいわ。ふたりとも、綺麗な子がいれば、すぐちょっかい出すけど、惚れ込むことはないのよ。実のところ、顔の美醜はどうでもいいのよね。でも――どうやらお前にとって彼女は特別……」
「どういうことだよ?」
作品名:di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア 作家名:NaN