白骨山(しらほねやま)
久美はバケツの中の魚を手で一匹掬い上げた。それは、白魚のような指に捕まえられて、ピチピチと跳ねている。
「あーあ、黒鯛でも釣れないかなぁ……」
惣一は子どもの頃、ここで一度だけ黒鯛を釣ったことがある。その時の思い出が鮮明に甦る。あの時は父親の源蔵が黒鯛を刺身にしてくれた。惣一にとっては良き思い出であった。
「死ぬってことは、思い出も一緒に消されるってことよ」
久美がネンブツダイをバケツの中に返しながら呟いた。
「え?」
「惣一さん、死ぬ気でしょう?」
惣一はその久美の言葉にギクリとした。竿を危うく海中に落としそうになる。いつもは明るい久美が、その時ばかりは真剣な表情をしていた。
「ど、どうしてそんなこと……」
「瞳を見ればわかるわ。その瞳は死を迎える直前の動物の瞳よ」
惣一には返す言葉がなかった。ただただ、思いつめたように竿先をみつめる。すると、大きなアタリがググッと伝わった。
「おおっ……!」
だが、抜きあげられた魚は、黒い身体に黄色い線の入った、ゴンズイであった。
「なんだよー、ゴンズイかよ」
ゴンズイとは鰭の棘に毒があり、不用意に触れると、棘に刺されることから、釣り人の間でも嫌われる魚の部類に入る。
惣一は「ちっ」と舌打ちし、釣り糸を切った。針を外すのに、棘に刺されては自分が痛い思いをするからだ。針を飲み込んだゴンズイは堤防の上で、ビチビチと跳ねた。惣一はそれを靴で蹴って、海中に落とした。
「可哀想、針も外してもらえないなんて……」
久美が海中を覗き込みながら言った。
「君は知らないだろうけど、あの魚には毒があるんだ。触れないよ」
惣一は少しむくれながら言った。そして、釣り道具を片付け始める。
「あーあ、今日はシケてるなぁ。ネンブツダイとゴンズイだけだ」
惣一はやや恨みの篭った声で呟いた。
「惣一さん、なんでそんなに死にたいの?」
久美が惣一の瞳を覗き込む。久美の瞳は真っ直ぐに見つめられないほど奥行きが深かった。惣一は視線を逸らす。
「俺は今まで、新薬の開発に心血を注いできた。その新薬が中毒患者を次々に出しちまったんだ。治験では問題なかったのに……。新薬の開発は俺の人生のすべてだった。俺の生きる場所は、もうこの世にはないのさ」
「そう……」
作品名:白骨山(しらほねやま) 作家名:栗原 峰幸