白骨山(しらほねやま)
惣一は実家に帰ろうかとも思う。だが、「今更、帰れる身の上でもないな」とも思うのであった。惣一は鋸山を見上げた。それは保田から金谷側にそびえる、山頂が鋸のような形をした山だ。惣一は幼少の頃より、この鋸山を見て育ったのだ。
惣一の足は鋸山に向かった。金谷側からはケーブルカーでその山頂まで登れる鋸山だが、保田側からとなると、自分の足で登らなければならない。登山道はすべて石段となっており、途中で日本寺の料金所がある。この鋸山は山全体が寺の境内となっており、拝観料が必要なのだ。汗をかきながら惣一は石段を登り、料金所で拝観料を払った。もうすぐ大仏である。
大仏に到着した惣一は、そこで一休みすることにした。飲み物を買い、汗で出てしまった体内の水分を補給する。平日にも関わらず、年配の観光客がちらほらと見受けられた。空が異様に高く、抜けるような青さだった。惣一は憎らしげに空を見上げる。そして、視線を大仏へと移した。大仏は慈悲深い眼差しをしており、惣一を見下ろしている用でもあり、東京湾を眺めているようでもあった。
「はあ……」
惣一は深いため息をつくと、山頂目指して歩き始めた。大仏から先は一層傾斜が険しくなる。それでも惣一は息を切らしながらも登った。かつては軽々と登った鋸山だが、研究室に篭っているうちにこんなにまで体力が衰えてしまったかと実感する惣一であった。だが、人生最後の登山くらいは自分の足で登りたいとも思っている惣一であった。
山頂は地獄のぞきと呼ばれ、北壁が切り立った崖になっている。山頂に着いた惣一はすぐさま地獄のぞきへと足を向けた。そう、惣一はここから身を投げるつもりでいたのだ。
地獄のぞきの景観はまさに絶景であった。垂直に切り立った崖に遠くを見れば、東京湾観音も眺めることができた。
(これが……、俺が最後に見る景色か……)
惣一が転落防止用のフェンスを乗り越えようとした時だった。
「すみません。シャッターを押してもらえませんか?」
振り返ると壮年のカップルがカメラを手に笑っていた。
「あ、ああ、シャッターね……」
惣一は呆けたように返す。そして、カメラを受け取ると、雄大な景色をバックに壮年のカップルをフレームの中に収めた。
その時だった。ちょうど、中年の観光客がドッとケーブルカーの方面から押し寄せてくるではないか。あっという間に山頂は人の山となった。
作品名:白骨山(しらほねやま) 作家名:栗原 峰幸