澤田文左衛門家の跡目相続
「お方様からの書状です、委細を承知為されたら、お屋敷にお越しくださいとのことです」
と告げて、丁寧にお辞儀をして去った。
房は、何事かと急いで文箱を開けると、忙しく目を通した。それで正伊脱走の委細を知ったが、銃器紛失は武器預かり方の死命にかかる重大な失敗であった。場合によっては切腹を免れない。しかも脱走したのであるから家禄没収・家名断絶の沙汰が下るかも知れぬ。澤田文左衛門家存亡の危機である。
藩邸中屋敷に上がった房は、お倫の方の部屋に案内される。お方様は、すでに高齢であるが、老いを感じさせない容姿が、房をまばゆくさせる。
「そなたも、相変わらず息災で何よりじゃ。ゆるりと、昔話をいたしたいが、今日はそうも参らぬ。書状で知らせたように、正伊の不始末が大事にならぬうちに収めねばなりませぬ。そこで思案だが、藩主・貞彰(サダアキ)殿に穏便な処置をお願いしよう。万一、幕府が口を挿むようであれば、大和郡山藩主の柳沢保泰(ヤスヒロ)殿に抑えていただこう。あのお方は幕閣によく通じて居られる」
お倫の方様は自信のあるような口調であった。小泉藩第五代藩主・貞音(サダナリ)侯の寵愛を受けたと言われるお倫の方は、正胤の拝領妻であったとも伝えられているが、こうして藩邸に居住しておられるということは、貞音侯の死後、藩邸に戻られたことになる。正胤が小泉移住と決まった後、貞音候の長男で第六代藩主であった貞芳(サダヨシ)侯の特別な計らいがあったのではないか。藩邸内ではもっぱらの噂である。
それもそのはず、貞芳侯は正胤の功績を事あるごとに褒め、隠居した正胤をしばしば藩邸に呼び出され、藩政について正胤の意見を求められたことがよく知れ渡っている。藩士の人数が三百人を超えない小藩のことであるから、藩邸の動静はすぐさま藩士たちの知るところとなる。
今回の正伊の事件もすでに藩内に知れ渡っていた。これを内々で済ますことは最早出来ない。房がお方様に頼み込んだのは、正伊の処罰が澤田家に及ばないように処理してもらうことであった。
「正則が若死にしたは、まことに遺憾なことであった。彼さえ存命であればこのようなことには至らなかったものを、正伊には士道の覚悟ができていなかったのじゃ。松太郎が育つまでと言う安易な気持ちで、婿養子を八尾が迎えたのが失敗であった」
と、お倫の方は吾がことのように嘆かれた。
「私は、良太郎が幼年のため、婿養子に老之助を迎えましたが、これはご存知のように、神官侍の弟で武家には全く不向きでした故、一年そこそこで離縁しました。八尾も、松太郎が四歳になるかならぬかのときに夫・正則が死亡し、跡目相続までの中継ぎに正伊を婿養子にしたのですが、このようなことになり残念でなりませぬ」
と、房は悔しさを隠しきれない。
「武家とはまことに厄介なものじゃ。家督相続に苦労するのが何よりも難渋なことよ。正胤殿隠居御許しの上、良太郎が八歳で家督を相続出来たは、正胤殿の往年の功績があったからじゃ。死に際しては貞芳侯が建碑為され、忠節澤田子魚と言う碑文まで賜った。この後五年ならずして、良太郎は正則と名乗り上士に取り立てられたばかりか、亡祖父・正胤殿の家督高百石を賜った。八尾が正則の嫁に来たのはその年であった」
と、お倫の方は昔を思い浮かべておられる。
「その八尾ですが、正則が死亡してからは気鬱の病に罹り、婿養子の正伊との仲も睦まじくはなく、五年目には正則のあとを追うように亡くなりました。三十四歳でした。八尾の死亡したのが享和元年辛酉七月二十二日でしたが、それから僅か二ヵ月後の九月二八日に正伊は後妻に徳を娶りました。これには、お方様もご存じのように、柳沢様にかかわる仔細がありました」
「松太郎は今、幾つかえ」
「十八歳になっていります」
「それならば、出仕できる年頃じゃ。正伊を離別するがよい。早速に藩邸に申し出られよ」
と、お倫の方はおっしゃった。房が咄嗟のことに返事しかねていると、
「正伊の処罰はこれで決着しよう。ちょっとまちゃ、貞彰侯に書状を差し上げようほどに」
と、お倫の方は口添えを書きしたためられた。
「後添えの徳はどうしておるのかえ」
「嫁して来て三年目に長男・計之助を産みましたが三歳のときに、河州誉田八幡社内北坊に遣わしました。長女・絲も授かりましたが他家に遣りました」
「そなたの計らいかえ」
「松太郎のために計らいました」
「正伊と徳が、逆らいはしなかったかえ」
「徳の兄である和州郡山藩士・小保総左衛門殿が説得してくださったので決着しました」
「正伊のこの度の不始末には、そうした事情も心に影響しておろう」
「計之助と二つ違いで生まれました絲も三つのときに他家に遣りましたから、徳の嘆きは見るのも辛いことでしたが、心を鬼にして、二人の孫を徳から引き離したのです。正伊とはそのことがあってから言葉も交わしておりませなんだ」
「正伊はそなたを怨み、そなたへの仕返しに、家名断絶を狙ったのであろう。そうとも思えぬことはない」
「正伊は昨年六月に不注意の咎により、武器預かりのお役御免になって以来、悶々と過ごして居たと徳より聞いていましたが、出仕は致していた由にて安堵していました」
「徳のことが心配じゃな。健気に振舞っているであろうが、腹を痛めた二人の幼児を無慈悲に引き離された悲しみはおなごにしかわからぬ」
と、このときお倫の方は、深いため息をつかれて、涙ぐまれた。それを隠そうとする素振りを為されたが、房には、お方様が房を産み落とされて直ぐに引き離されたことを思い出されたのではないかと、邪推が働いた。だが、このことの実不実は定かでないので、これまでも一度も口にしたことはない。今も口を噤んでいる。
正伊の処分が降りたのはこれから数日後と言う早さであった。通常ならばしかるべき評議に時間を要し藩侯の裁可が下りるまでに数ヶ月はかかる。この度は評議を略し貞彰侯が直裁された。正伊を廃嫡し、幼名・松太郎改め、文左衛門正続(マサツグ)に家督高七十石を相続せしめる旨、ご沙汰が下った。時に正続は十八歳である。
藩邸ではこの沙汰を巡って、お倫の方の存在が囁かれるも、藩侯に遠慮してか、大きな声にはならない。逆に、澤田文左衛門正胤は藩士の鏡だったという話が輪を広げて、大法寺の正胤の墓碑に参拝し花を供える者もいた。この噂は江戸の房にも伝わっている。
房は、この度の藩侯のお計らいにお礼の意を申し述べるべく、お倫の方のお部屋に伺候した。このとき、仰天するほどに驚いたのは、貞芳候の長男で第七代藩主の貞彰(サダアキ)侯が着座されていたことである。房の様子を見て、お方様は、にこやかなお顔で、
「時候見舞にお見えくださったのじゃ。房が訪ねてくると申し上げたれば、是非、会ってみようと仰せになったので、そなたの到来まで雑談で時を過ごしていた」
と、平伏すように身をかがめている房に、優しく声を掛けられた。貞彰侯は興味深そうに房を眺めておられる。この後、貞彰候は直ぐに部屋を去られた。一目会っておこうと言うことであったらしい。
作品名:澤田文左衛門家の跡目相続 作家名:佐武寛