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澤田文左衛門家の跡目相続

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  澤田文左衛門家の跡目相続                      
               佐武 寛
             
 
 
             一
 大和郡山小泉に石高は僅か一万一千石の小泉藩があった。藩祖は片桐旦元(カツモト)の弟・貞隆(サダタカ)である。お隣は石高十五万一千石の郡山藩で藩祖は柳沢吉保(ヨシヤス)の子・吉里(ヨシサト)である。
 この藩に、澤田文左衛門を名乗る武家があった。その始祖・文左衛門正雅(マサツネ))は、正徳元年(1711)辛卯七月九日、中士に任ぜられ、寛延元年(1748)戊辰五月十五日に上士に累薦されている。
 二世・澤田文左衛門正胤(マサタネ)(字子魚号梅林)は、小泉藩士・三輪源冶兵衛の弟源蔵で、先代・正雅(上士)が寛延二年(1749)己巳正月九日病死につき、同年五月二日養子に迎えられる。同年九月三日家督相続、中士に任ぜられる。この年、正胤は三十二歳であった。 
 翌、寛延三年(1750)庚午十一月二十三日、長女・房が生まれる。この房が、澤田文左衛門家の三代に亘る跡目相続に深く関わることになる。房は、実子・正則(マサノリ)の妻・八尾と正則の死後迎えた婿養子・正伊(マサヨシ)並びに八尾の死後、正伊が娶った後妻・徳を援けて澤田文佐衛門家を守ったのである。
 
 正胤が中士として仕えた宝歴年間(1751〜1764)には冷害による飢饉が起きている。宝歴五年(1755)から七年にわたって東北地方のみならず大和地方でも餓死者が続出した。小泉藩ではこのために年貢の収納も大幅に減収し藩の財政は困窮を極めていた。江戸詰の正胤にもこの事情は伝わっている。
 正胤は、明和二年(1765)乙酉正月十一日上士に累薦され、新知百石賜り、用人役を命ぜられる。明和五年(1768)戊子正月十一日三十石加増、都合百三十石を領し、従前の江府(江戸)住居より小泉住居を命ぜられる。この移住に際しては、邸宅九番邸を拝領し、営繕料金二十両を下賜される。格別のお計らいであった。更に、二年後の明和七年(1770)庚寅八月二十三日に五十石加増され、都合百八十石を領する。このような過分のご加増には理由があった。正胤は飢饉で疲弊した藩財政の立て直しを自ら買って出たのである。
 正胤は、これより先、明和元年(1764)甲申四月十五日に河州狭山藩士・松川綱右衛門弟・久米七を養子に迎えている。久米七は同年十二月二十八日嫡子席に召し出され、十石二人扶持を賜る。しかし、久米七は明和四年(1767)丁亥十一月二十一日、二十二歳で病死する。
 正胤は、良太郎幼年に就き、再び婿養子に、和州奈良春日神社侍官坂堂内蔵之助弟・老之助を、明和七年庚寅八月十八日に迎える。老之助は、同年十月十五日嫡子席に召し出され十石二人扶持を賜る。しかし翌明和八年(1771)辛卯十一月九日故有って離別している。時に正胤五十三歳であった。
 その二年後の安永元年(1772)壬辰四月十六日、正胤は隠居し、正則(良太郎)が年八歳にして家督を受け幼年席に就き、五人扶持を賜る。正則が幼年のため、伯父・三輪源冶兵衛が代勤を命じられる。ところが、翌安永二年(1773)癸巳十一月二六日、三輪源冶兵衛正武病死の為、五人扶持を奉還する。正胤は安永七年(1778)戊戌七月十七日六十一歳にて病死した。
 祖父・正胤の死の翌年、安永八年(1779)巳亥正月十一日、正則は再び給人幼年席に召し出され、殿中直勤を命じられる。その際、鼻紙料銀弐拾枚を賜り二人扶持を与えられる。更に、天明二年(1782)壬寅正月十一日、亡祖父・正胤の家督高百石を賜り上士に任ぜられる。正則は時に年十八歳である。正胤の家系存続の宿願は死後四年にして達せられた。
 これには正胤の藩政に対する功績が大きく働いている。それを証左して余りあるのは藩主・貞芳侯が正胤の墓碑を建立し碑文を贈ったことである。その墓碑には以下のように銘記されている。
 嗚呼忠節哉澤田子魚予会倉庫虚耗及
王事不可給馬時子魚外官而疏哉而心燭憂苦之請
 間告我則吾委任之与我一心為国猶為家又多薦
 挙士以輔之且其為人也固知大体臨事能断加之
 有節度績庸之成如陽下発動春草日長茂
 裁不五年而国如初則賞之以中老曰臣之資
 質非其器也不拝後歳余予意彼若過失以損
 其功乎使致仕且譲家其孫以楽余年以報社稷
 之功子魚卒以安永戊辰閏七月十七日受年六十
 一予又使以中老之禮葬小泉大法寺又立其石
 銘其墓旌忠節之臣云子魚?正胤
  安永己亥春二月
     小泉候源貞芳立並撰
 
 正胤は財政担当の役ではなかったが、藩財政の窮乏を救う為に、その役を自ら申し出て引き受け、藩侯と心を合わせ、多くの藩士に薦めて五年経たずして財政を旧に復した。貞芳侯は其の功を賞するため、正胤を中老に任ずると申し出されたが、正胤は自分は其の器でないと言って拝命しなかった。正胤は安永七年(1778)戊戌七月十七日六十一歳で死没し、貞芳侯は中老の禮を以って小泉大法寺に葬り墓碑を立て碑文を撰し忠節澤田子魚之墓と銘記する。時に、安永八年(1779)巳亥春二月のことであった。
              
             二
 二世・文左衛門正胤(マサタネ)の跡を継いだ三世・文左衛門正則(マサノリ)(幼名・良太郎)の妻は、実父・久米七の兄・河州狭山藩士松川綱右衛門の娘・八尾である。天明二年(1782)壬寅五月十五日に入籍している。正則十八歳、八尾十六歳であった。この年の正月十一日には正則が祖父・正胤の家督を相続し高百石を賜り上士に任ぜられているのだから目出度さも格別であったろう。長男・松太郎が寛政六年(1794)甲寅九月十二日に生まれる。正則三十歳、八尾二十八歳のときである。
 やっと、嗣子を授かって喜んでいたであろうに、この三年後の寛政九年(1797)丁巳九月八日正則が病死する。三歳の幼児を抱えた八尾は、この子が成長するまでの中継ぎにするべく、寛政十年(1798)戊午十一月十日和州平群郡勢野村住菅田伊織弟を婿養子に迎えた。これが正伊で、同人は、同年十二月二八日家督高七十石を受け上士に任ぜられた。八尾はやれやれと思ったであろう。だが、不幸にも、この四年後の享和元年(1801)辛酉七月二十二日行年三十四歳で八尾は病死した。小泉大法寺に葬られる。法名は善性院妙信日有信女である。
 八尾が死亡してから二ヶ月後の享和元年(1801)辛酉九月二十八日に、正伊は和州郡山藩士・小保総左衛門妹徳を後妻に迎える。この年、松太郎は九歳であった。この縁談をまとめたのは松太郎の祖母にあたる房である。
 房の母は江戸の女である。素性は定かではないが、第五代藩主・貞音(サダナリ)候にゆかりのある女性、お倫の方であると言われている。後年、正胤が外官(担当外の役職)であるにもかかわらず、藩政窮乏を救う為に身を賭して働いたのは、こうした背景があったからであろうと噂もされている。
 
             三
 四世・澤田文左衛門正伊が江戸藩邸在番中に脱走したという知らせを房は同日のうちに受けている。藩邸から使いが来たのである。この頃、房は江戸に戻っていた。使者の女は、