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ベイクド・ワールド (下)

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「このあいだ優しく抱きしめてくれたみたいに、抱きしめて。そうすれば、たぶん、大丈夫」
 僕は迷った。なぜなら、僕は『冷たい』から。彼女の温かさを奪うことしか、僕にはできないのだ。しかし、僕はそれを断れなかった。僕はゆっくりと頷いて、彼女に近づき、このあいだと同じように彼女を抱きしめた。
 やっぱり。僕は彼女の温かさのなかに包まれた。彼女の身体はとても温かかった。僕はひどい冷たさを帯びていた。このままでは彼女も『冷たさ』のなかに引き込んでしまうことになる。
「もう、いい?」と僕は言った。
 玲はゆっくりと首を振った。「もう少し」
 僕は黙って、彼女を抱きしめ続けた、腕を彼女の背中に回して。彼女も僕の背中に腕を回した。
 その瞬間、僕は気がついたのだ。僕の体温と、玲の体温が、まったく同じになっていることに。二人の体温は混じりあい、お互いがまったく同じ温かさになっていることに。僕の冷たさと玲の温かさの真ん中の位置にある温度に体温は移りかわっていく。そして、ゆっくり、ゆっくりとどちらも温かくなっていく。
 そうだ、と僕は心のなかで呟いた。僕は彼女のために今まで何かをしようと思っていたけれど、実際のところ、彼女に僕は助けられていたんだ。そのことに気がついて、僕は涙が出そうになった。
 ふいに、玲は僕の背中に回していた腕をゆっくりとほどいた。僕もほどくと、玲はゆっくりと身体を離した。
「ありがと、もう大丈夫」と玲は僕に言った。それは、僕が言うべき言葉でもあった。
 玲はもう一度ノブに手を置く。彼女にはもはや迷いはなかった。ノブをひねり、扉を勢いよく押し開けた。

 玲にとって、ひどく眩しいであろう光が彼女の身体を包み込んだ。三年ぶりの光だ。その圧倒的な光を彼女は感じている。彼女は目を細めて、その光にゆっくりと慣らしたあと、一歩、足を踏み出した。外に出た彼女は、ゆっくりとこちらを振り返った。
「自分でも予想外」と玲は言った。「こわがることなんかなかった」玲はそう言って、小さくジャンプした。
 僕は小さな笑みを浮かべながら、外に出て、玄関の扉を閉めた。

 僕たちは近所の付近を少し歩いて回ったあと、バスに乗り、藤枝駅をめざした。彼女はいたって普通だった。これまで三年も外に出ていなかったとは思えないほどに。彼女は外の世界になじんでいた。玲の目はまさに光輝いていた。僕はそんな彼女の姿をうれしく眺めていた。
 藤枝駅に到着すると、僕たちは静岡駅へと向かう列車に乗った。僕たちは静岡市街を歩こうと、約束していたのだ。彼女は、「新しい服が欲しい」と言った。彼女が今着ている水色のワンピースもとても素敵だったが、それはまぎれもなく三年前の代物だったのだ。静岡駅に到着すると、彼女が行きたいと言った静岡パルコに僕たちは歩を進めた。

 静岡パルコは、マンホールが消えた呉服町通りを二ブロックほど、まっすぐに進むと左手に見える。夏休みなので当然だが、道には多くの人々が行き交っていた。パルコ前ではパルコのCMがひたすら繰り返し、流れていた。パルコのキャラクターであるパルコアラと、数人の女モデルたちがひたすら踊り続けるCMだ。
 店内に入り、僕たちはエスカレーター近くの壁にあったフロアガイドを見た。玲は看板に手をあて、お目当ての店を探しているようだった。
 玲は「あった」と言った。
 玲が指差す先には『LEST ROSE(レストローズ)』とあった。彼女のお目当ての店をどうやらそこらしい。僕と玲はエスカレーターに乗り、レストローズのある三階を目指した。
 そこは、いかにも女の子らしい可愛らしい服が置かれている店だった。フラワーモチーフの刺繍やレースを特徴としたクラシカルだけど、少女っぽさを感じさせる服がコンセプトのようだった。そこに並べられている服を見ると、そのどれもが玲に似合いそうな気がした。
 僕は彼女の後ろについていくより他ならなかった。女の子の服を僕が見たとして、どうしようもないのだから。ふいに、彼女はひとつのワンピースを手にとった。彼女はワンピースが好きなのだ。思えば、彼女はいつもワンピースを着ていた。
 彼女が手にとったそのワンピースは、オフショルダートップスにダレンチェック柄のサスペンダー付のスカートだった。玲に似合いそうな可愛らしい服だった。
「これいいなあ」と玲は言った。「でも、似合うかな?」
「きっと似合うよ。試着してみる?」
「うん」

 やっぱり。間違いなく、そのワンピースは彼女に似合っていた。まるで彼女のために作ったのではないかと思えるほど、彼女にぴったりとマッチしていたのだ。
「とても似合うよ。とてもかわいい」と僕は言った。
「私も気に入った。これにする」そう言って、彼女は試着室のカーテンをぴしゃりと閉めた。

 玲はこのようにして、三年ぶりに新しい服を手に入れた。

 僕たちはレストローズを出たあとも、他の店舗を回ったり、ロフトやタワーレコードに立ち寄ったりして、ささやかな時間を消費した。それはとても楽しい時間だった。夕方近くになると、七階にあるベーカリーレストラン『バケット』に入り、ご飯を食べた。僕は『ハンバーグステーキジャポネソース』を食べ、玲は『鯛のパン粉焼ききのこクリームソース』を食べた。驚くことに、彼女はそれをぺろりと平らげた。僕は彼女のそんな様子に驚きつつも、やはりうれしく思った。

 僕たちは家に帰るために静岡駅に向かった。呉服町通りは、夕刻になっても、まだ人々で溢れかえっていた。僕たちは、地下道を抜け、静岡駅北口前に出た。しかし、そのときだ。信じられないことが起きたのだ。僕はまさに自分の耳を疑った。何が起きたかというと。

 空に再びあの奇妙な音が鳴り響いたのだ。僕はすぐに立ち止まり、空を見上げた。オレンジ色に染まった夕焼け空のなかにあの奇妙な音は聴こえた。まるで金属と金属を擦り合わしているかのような、あの耳障りな音。 
「これ、何の音かなあ?」と玲は訊いた。
「……工事か、なんかじゃないかな」と僕はごまかした。内心、僕はひどく動揺していた。玲がこの不可思議な現象に巻き込まれてしまうことをとても心配に思ったのだ。 
「でも、まるで空から聴こえているような気がするけど。工事も近くでやってるようには見えないし」
「もしかしたら、建物で音が反響しているのかもしれない。それに南口の方で工事をやってるのかも」
 寂しく、はかなげな印象を受ける音は、やがてくぐもった音となって、音量を徐々に上げていった。しかし、そこで、僕はあることに気がつく。あることとは、つまり、聞こえてくる音が、あのときとは少し違うということだ。時折、まるでノイズのような音が入り混じるのだ。そして、それはまるで不吉な声のように聞こえた。
「とりあえず、帰ろう」と言って、僕は玲の手を引っ張り、ここから一刻も離れようとした。しかし、その瞬間、僕の目にあるものが映った。僕は、見るべきでなかった。目に映すべきではなった。しかし、どうしようもなく、それは僕の目に映り込んでしまった。

 僕は、北口の階段をゆっくりと降りていく一人の男を見たのだ。その姿に僕は驚かずにはいられなかった。何故、こんなところにいるのだ、と。