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ベイクド・ワールド (下)

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第十三章 世界の終りの彼女が、すべての不完全なラヴ・ソングを歌う



 部屋に置かれた五枚の羽根のうち一枚の羽根が欠けた扇風機はがたがたと音を立てながら、生ぬるい風を僕に浴びせ続けていた。僕は眠れない長い夜をそんながたがたとした音を聞くことによって消費したのだ。カーテンから、かすかな光が漏れる。ようやく、朝がきたのだ。

 今日は僕にとって特別な日だった。いや、僕だけでなく、玲にとっても。つまり、今日は玲が外へ出る日だったのだ。僕は部屋を出て、玲の部屋に向かった。玲はすでに起きていた。三年ぶりに外へ出ることを想像し続けて眠れなかったのだろう。きっと、そこには大きな期待があり、それと同時に、大きな不安があるはずだ。
 玲は僕がいることに気がついた。
「……亜季。……やっぱり、私ちょっとこわい」と玲は言った。
「ああ、気持ちは分かるよ。久しぶりに何かをするってのは、誰だってこわいもんさ。でも、そういったことって、すぐに慣れてしまうものでもあるんだよ。気づけば、なんであんなにこわがってたんだろう、って不思議に思うくらいに」
「そうなのかな?」と玲は言った。前髪は、玲の瞳を隠している。 
「そうだよ」と僕は言った。「で、今日の体調はどう?」
「いい感じ」
「それはよかった。じゃあ、今日は外に出るにはうってつけの日だ」と僕は言った。「とりあえず、リビングに行って簡単なものでも食べよう。外に出るためにはエネルギーを身体のなかにいれなきゃだ」
 玲は少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。「うん」
 僕は彼女の手を持って、リビングへと向かった。部屋のなかの明るさでさえ、彼女にとっては明るすぎた。目を細めながら、おぼつかない足取りでゆっくりと前に進んでいく。
 リビングには涼子がいた。涼子は僕たちを見た。涼子の目はかすかに潤っていた。彼女はそれを気づかれないようにしていたようだったけれど、僕は気がついた。
「玲、おはよう」と涼子は言った。
「うん、おはよう」
「今日、外に出るのね?」涼子はゆっくりと確かめるようにそう言った。
「うん、亜季と一緒に」
 涼子は僕を見た。それから視線を玲に戻して、「じゃあ、楽しんでこないとね」と笑みを浮かべながら言った。
「そのためには、朝食を食べないといけない。ねえ、涼子。何か簡単に食べられるものないかな?」と僕は言った。
 涼子は少し考えてから、「フルーツグラノーラがあるわよ」と言った。
「いいね、それを食べようか?」と僕は玲に言った。
「うん、そうする」
 テーブルに、フルーツグラノーラが三人分置かれた。玲と、涼子と、僕の分だ。ミルクをかけて、スプーンで口に運ぶ。ドライフルーツの酸っぱさと、ミルクに溶けだしたシリアルの砂糖の甘さが混じり合う。驚くことに、玲はもぐもぐとそれを胃のなかに押し込んでいた。こんな姿見たこともない。
「あんまり、無理するなよ。むせるよ」と僕は玲に言った。
「大丈夫。外に出るんだから、いっぱい食べなきゃ」玲は今まで満足に食べてこなかった三年分の食べものを食いつくすかのような勢いで食べていった。もはや、食物は彼女にとって異物として認識されないのだ。それは、僕にとってとてもうれしいことだった。そして、それは涼子にとっても、ということになる。
 朝食を終えると、玲は「着ていく服、選んでくるね」と言って自分の部屋に消えた。僕も自分の部屋に戻り、服を着替えることにした。このあいだ、このときのために買ったユナイテッドアローズの服。ホワイトのカットシャツと格子柄のスラックス。つまり、店員の言葉を借りるならば、『おすすめで売れている服』だ。僕は着替え終えたあと、鏡で自分の姿をみた。玲と一緒に歩くには、まさにぴったりであるような気がした。

 リビングに戻って、つまらないニュース番組を眺め、しばらくすると玲がやってきた。まさに、彼女はキュートだった。彼女は、彼女が気に入っていてよく着ていた水色のワンピースを身に着けていた。肩から袖に丸い模様がデザインされたレースがついていて、清楚なレトロなデザイン。すっとしたシルエット。
「かわいいね」と僕は正直に言った。
「ほんと?」と玲は言って喜んだ。笑顔もとてもキュートだった。「ありがと」
 それから、彼女は自分の前髪を触った。そして「前髪、自分で切っちゃおうかな」と言った。
「うん、君はおでこを出した方がもっとかわいいよ」
「じゃあ、切ろっかな」そう言って、玲は抽斗にしまわれていたすきバサミを持って洗面所へと向かった。
 再び、リビングに戻ってきた彼女はさらにキュートになっていた。
 玲は前髪を抑えながら、小さく笑った。「少し、失敗しちゃった」
 確かによく見ると、彼女の前髪は左半分が短くなりすぎていた。でも、そんなところも可愛らしかった。
「別に変じゃないよ」と僕は言った。「やっぱり、君はおでこを出した方がいいね」
「褒めても何もでないよ」
「いいよ。一緒に街に行ってくれれば」

 僕たちは玄関の前にいた。玲は水色のワンピースと同じくらいにお気に入りだったスケルトンのミュールを履いたまま、玄関に立ちすくんだ。きっと怖いんだろう。それも当然だ。三年ぶりに外に出ることになるのだから。

 今から四年前、徹が死んだとき、玲は小学六年生だった。小学六年生の彼女に対して、『徹が自殺によって死んだ』ということは伝えなかった。つまり、『何らかの事故によって死んだのだ』、と僕たちは教えた。彼女はひどく悲しんだ。つまり、不運な事故による彼の死にひどく悲しんだのだ。そんな深い悲しみを抱えながらも、そのときの彼女は小学校には通い続けていた。もともと体が弱かったから、休むことはあったけれど、不登校になったというわけではない。
 そして、彼女は中学校にあがった。中学校にあがった彼女も休みがちではあったけれど、学校にはちゃんと通っていた。しかし、その年の夏ごろあたり、彼女はどこでそれを知ったのかは分からないけれど、徹の死は事故ではなく、自殺によって起きたのだ、ということに気がついた。彼女は、何故、自分にだけ教えてくれなかったのだ、と僕たち家族を責め立てた。僕たちの、精神的にも未熟な小学生の心を傷つけたくなかったのだ、という主張も彼女には通らなかった。
 そして、彼女はひどく『絶望』した。少しずつ、少しずつ、心を閉じていき、マトリョーシカのようになってしまった。徹のいう無限の内的世界へと自分を閉じ込めていったということだ。それは三年にも及ぶ長い期間だった。中学校には、ほとんど通うことができなかった。
 しかし、それも今日で終わるのだ。今日はつまりマトリョーシカの一番奥に潜んでいる本体とも呼ぶべきものが外へと出る日なのだ。

「大丈夫?」と僕は玲に声をかけた。
「うん。でも、ちょっとこわい」と玲は呟いた。
「いくらでも待つさ」
 玲は頷いた。
「別に今日じゃなくてもいいんだよ」僕は彼女のプレッシャーを減らすために言った。
 しかし、玲は首を振った。「もう、今日って決めたの。だから、ぜったいに今日、外に出るの」
 玲は玄関のノブをつかんだ。きっと金属製のノブの冷たく硬い感触を彼女の手は感じているはずだ。しばらくすると、ふいに彼女はノブから手を離した。それから言った。
「亜季、抱きしめて」
 玲は僕を見た。