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ベイクド・ワールド (下)

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 つまり、僕の視界に映った男とは、黒いウインドブレーカーを被った男だ。第四しんぼるである『首なし狐像』を破壊しようとしたとき、僕を襲撃したムシカと名乗る男だ。後ろ姿しか見えなかったが、間違いない。僕を地面へとねじ伏せ、首なし狐像を持ち去ったときの後姿とそれはぴったりと一致したのだ。僕は彼を追わなければならない、と心のなかで思った。早く追わなければ、見失ってしまう。
「玲。申し訳ないけれど。ここから一人で家まで帰れるかな?」僕は声を震わせながら。そう言った。僕の視線は常に男のいた方を見つめていた。
「え?」と玲は驚いたふうに言った。「まあ、大丈夫だと思うけど、急にどうしたの?」玲は、僕の様子を明らかに不思議に思っている。
「ちょっと、用事を思いだして」と僕は嘘をついた。
「用事?」と玲は言った。
「ああ、とても大切な用事なんだ」もはや、ムシカの姿は見えなくなっていた。早くしなければ、本当に間に合わない。「本当にごめん。大丈夫かな?」
「え。うん、大丈夫だよ」と玲は言った。それから頷いて、笑った。「いいよ。用事があるなら、行ってきて」
 僕は「ごめん。先に帰ってて」と言って、足早にムシカが歩き去った場所へと向かった。玲には本当に申し訳なかったけれど、僕にはそうするより方法はなかったのだ。

 再び、僕は地下道に降りた。しかし、そこには、もはや黒フードの姿は見えなかった。僕は道をまっすぐ全速力で走った。道行く人々はそんな僕を明らかに好奇な目で見ていたが、僕にはそんなことを気にする余裕はなかった。
 地下道をしばらく走り抜けると、黒フードの姿を遥か彼方に見つけた。彼は階段を登っていき、消えた。再び、僕は全速力で疾走した。これほどまでに全力を出すことは今までになかった、と僕は思った。息が切れ、額からはたらりと汗がしたたり、身体全体が熱を帯びた。
 階段を登りきると、足の筋肉が膨張して、痙攣をはじめた。しかし、僕には休む暇はなかった。かなり前方に黒フードを見つけた。ふいに赤信号に捕まるが、僕は無視して前へと突っ切った。黒フードは右へと折れ、姿が消えた。
 僕も急いで、そこまで走り抜け、右へと折れた。しかし、彼の姿はそこには見えなかった。僕はふいに力が抜けてしまった。見失ってしまったのだ。
 しかし、耳をすませるとどこかから足音が響いた。かたかたと金属を踏みしめるような音だ。僕は辺りを見回した。そうすると、小さなビルの外に建てつけられた金属製の階段を誰かが登っていた。
 目を凝らすと、黒フードが見えた。僕は、そのらせん状になった金属製の階段を勢いよく駆け上がった。ところどころ錆びついていて、今にも崩れ落ちそうにも見えた。しかし、僕はそんな不安を感じる暇はない。二段飛び越して、階段を一気に駆け上がっていく。頭は酸素を欲していて、頭がぼうっとした。気を失いそうになるほどの感覚に襲われながらも、僕は全力を出して、階段の手すりを右手で強くつかみながら、這い上がっていった。

 そして、ようやく屋上にたどり着いた。 

 黒フードの男は屋上の真ん中でフードから顔を出して、空を見つめていた。僕は息を切らしながら、彼の後姿を見つめた。今まで夢中になっていて気がつかなかったが、まだ奇妙な音楽は空に響き渡っていた。先ほどより、いくぶん音は小さくなっていたけれど。
 黒フードの男は僕の存在に気がついたようで、こちらを振り返った。髪は後ろにかき上げ、額が露出している。まっすぐな眉毛、瞼は薄く、やつれているように見える。鼻筋はすっきりとし、上に向き、唇は横広で厚い。明らかに十代の少年だった。
 そして、僕は驚く。なぜなら、彼の瞳が涙で濡れていたからだ。涙のとおり抜けた線が頬に残っていたのだ。彼はそれに気がついたのか、右腕の袖で涙を拭き取った。

「やあ、久しぶり」と彼は言った。紛れもなく、あの時に聞いた声と一緒だった。僕は黙ったままだ。「またこうして会えると思っていたよ。アルビナ」と彼は言った。
「お前はいったい誰なんだ?」と僕は言った。声が震えていたのが自分でも分かった。
「君も知っているだろう? ムシカだよ。沙希が想像した物語の登場人物。それが僕だ」
「ムシカにはモデルがいないはずだ」と僕は言い放った。
「モデルがいなければ、それに対応する現実の人間がいないと言いたいのか? いや、そんなことはない。君たちは勘違いしている。モデルがあるから黒い呪いが付与されたわけじゃない。想像力というものは知らぬうちに他者に介入するものだ。そのようにして、彼女の意図することなく、僕にムシカの役割が付与されたんだ」
 僕は黙った。それから少し間を開けてから、僕は訊いた。「どうしてあの時、第四しんぼるを奪ったんだ?」
「それはもちろん、必要だったからだよ」とムシカは無機質な声で答えた。
「何に必要だったんだ?」
「それは君に話すことじゃない。もう、終わったんだよ。問題なく、しんぼるは、すべて、破壊されたんだ」
「第四しんぼるは破壊されていないだろ?」
「いいや、あれは僕が責任をもって壊した。もちろん象蟲が再生する二十日の午後より前にね」とムシカは言った。「沙希の物語に書かれているとおりに、その役割に忠実に従った。第四しんぼるだけは、Sin-Sekaiで唯一、ムシカが破壊するしんぼるだったはずだ」
 僕は沙希がそう言っていたことを思いだした。僕は驚かずにはいられない。「どうして、そのことを知っている?」
 ムシカは小さく笑った。「僕は何でも知ってるさ。沙希のSin-Sekaiについても、この世界についても」
 僕は黙った。それから再び、口を開けた。「お前が第四しんぼるを壊したんだとすれば、象蟲の再生は未然に防がれたということになる。それなのに、どうしてこの音楽は鳴り響いているんだ」僕は空を見上げた。
 ムシカも空を見上げながら、小さく笑った。「その理由が知りたい?」
 僕は黙って頷いた。
「つまり、君が思う以上にこの街は変容しているということだ。沙希のSin-Sekaiは、その変容を構成する一部のようなものだった。しかし、もはやSin-Sekaiは焼かれ、その物語は崩壊した」
 彼が何を言っているのかまったく理解できない。しかし、ムシカはSin-Sekaiが焼かれたことを知っているようだった。
「Sin-Sekaiが焼かれたことについて、お前は何か知っているのか?」
「あれは、そもそもこの街には存在しない『概念』だった。にもかかわらず、その概念が突然、街に介入してきて、鯉を全滅させたり、オタマジャクシを降らせたり、マンホールを外したりしたわけだ。無論、Sin-Sekaiという概念はこの街にとっては異質なものだった。だから、街によって消滅させられた。部分というものは常に全体に取り込まれるものだよ」とムシカは言った。「だから君もそろそろ、その全体に気がつくべきだと思う。この街が抱えている問題について君は知るべきだ」
 部分? 全体? 僕には彼が言っていることがまったく理解できなかった。
「いったい、僕は何を知ればいいんだ?」