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仁科 カンヂ
仁科 カンヂ
novelistID. 12248
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天上万華鏡 ~現世編~

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 心配そうに肩に手を置いて言葉をかける仁木。しかし、凄い力でそれを振り払い、溢れる思いを口にする。
「触らないで! ……私は天国で庄次郎さんを見守るの! それがこれからの私の生き甲斐なのよ! こんなところで立ち止まっていられない!」
 春江はいつしか庄次郎のために生きていた。庄次郎に尽くすことが至高の喜びだった。庄次郎のために死を選んだ今、直接尽くせない代わりに、せめて見守ろうと心に決めていた。俗にいう守護霊のように助けようと思っていたのである。
 だから今の自分では側にいるだけで何もできない。成仏しない単なる幽霊では、取り憑くこと以外、何もできないと思ったのである。
 だからこそ、彼女の言う「天国に行くこと」にこだわりを見せたのである。しかし、この思いを仁木は無情にも砕いてしまう。
「それは無理なんです」
「どうしてそれがあなたに分かるのよ!」
「あなたは死んだばかり。私は五十年前に死に、ずっとここにいるんです。あなたより私の方が詳しくて当然でしょ?」
 春江にとって一番聞きたくない言葉だった。必死になって否定していたものが、一度にひっくり返った瞬間であった。
「……そんなはずはない……」
 そう言いながらも、春江は確信してしまった。
――――私はもう成仏できない……
 春江は絶望し、体を震わせながら、その場にへたり込んでしまった。脱力しきった体を必死に奮い起こし、体の奥から絞り出すように声を出した。
「神様…………私を迎えに来て下さい……」
 春江は空をゆっくりと見上げた。
 自殺してしまったために、成仏できなくなった。しかし、神への信仰により、慈悲にすがることができるかもしれない。春江はわらにすがる気持ちで祈るのであった。しかし、見上げた先にある空は無情にもいつもと変わらぬ普通の空。誰も迎えに来るわけでもなく、空が光るなどの劇的な現象が起こるわけでもなく。
「神様は私を見捨てたのですね……」
 そう呟かずにはいられなかった。
 春江は、ゆっくり仰向けになり大の字になって寝そべった。そして、その顔は感情が全く消えたような無表情になり、瞳は濁りロボットのような冷たさを放った。
 春江は全ての希望を失った。庄次郎のために起こした自分の行動が招いた結果。そうなることに一片の後悔もないとはいえ、目の前に突きつけられた現実を受け入れることがどうしてもできなかった。
――――私にはもう生きる目的がない……
 死んだ後も存在する自分に対して、自分自身がその存在理由を否定した。でもその存在を消すことができない。
 春江は全ての動きを止め、思考すらも放棄することによって、ただ時間が過ぎ去るのを眺めようとした。
「だから放っておけなかった。みんな自殺した後は成仏できない現実に絶望する。そして自暴自棄になり、身も心も闇に染まる。」
 春江の目は虚ろで焦点が合っていない。生きることを放棄した春江は、少しのことでは心が動かなくなってしまったのである。だから、仁木の言葉も聞いているのか否か、分からない程、体は動きを示さなかった。仁木はその様子に業を煮やし、春江の手を取り歩き出した。春江は仁木に手を引かれるまま嫌々ついていった。
「いいものを見せてあげます」
 と、仁木が指差したのは、疲労困憊の表情で座り込んでいる三十代ぐらいの男である。場所は、立派な石橋の丁度真ん中であった。
 暫くすると、うなだれている首筋辺りから煙のようなものが出てきた。彼の首には穴のようなものがあるわけではない。この煙は空気に溶け込み広がって消えていくわけではなく、まとまりとして残り、次第に何かの形になってきた。
 やがて、それが顔になり、首から伸びる魂のようなものに不気味な顔が生えているというなんとも気味の悪い状態になった。
 男性の周りには大勢の通行人が行き来しているが、この異様な光景に気付くことなく平然と通り過ぎる。どうやら、この煙のような顔が見えていないようである。
 程なくして、煙が完全に人の顔になると、その顔は男の耳元でささやいた。
「え?」
 春江は、この異様な光景に驚き、仁木の顔を見ながら呟きを漏らした。
「見ていてください」
 仁木は男達に目を向けるように言葉をかけた。
「お前は最低の男だ。死んじゃえ」
 煙の男は不気味な笑みをこぼしながら、辛酸な言葉を連ねていった。
「う……う……あぁ……」
 疲労困憊の男は煙の男から言葉をぶつけられる度に苦しみ、病的な姿に変わっていった。
 その様子を体を震わせながら見つめる春江。仁木はその様子を見て、口を開いた。
「これが俗に言う憑依(ひょうい)です。取り憑くことで、生きている人間を苦しめ、最後には死に至らしめる」
「どうして……どうしてこんなことするの? どうして?」
「自分は成仏できない……なのに、のうのうと生きている人間はごまんといる。それに対する嫉妬……しまいには、人が苦しむのを眺めるのが快楽になってくる。これが、自殺者の歪んだ精神なんですよ」
「そんな……」
 更に憑依霊の悪行は続く。
「生きていたって何の役にも立たないよね?」
 男の体は次第に震えだし、その精神は次第に崩れだした。目はかっと見開き、逆に口はだらしなく開き、よだれが垂れ流しになってきた。
「後ろに橋があるじゃないか…覗いてごらん。飛び込んだら死ぬことできるよ」
 男はすっと立ち上がり、橋の下を眺めた。
「お前は害悪だ。くずだ。死ね」
 この言葉がとどめとなり、男は橋の手すりに手をかけ、またごうとした。その時、春江は我慢できなくなって叫んでしまった。
「やめて! 死んじゃ駄目!」
 更に春江は、男の元に駆け寄るが、触ることができなかった。それを見た憑依霊は、顔だけでなく上半身全体を素早く出し、手のひらから火を出して春江を攻撃してきた。
「きゃーー!」
 春江は突然の攻撃に戸惑い立ちすくんでしまった。
「邪魔するな!」
 憑依霊は憤怒の形相で春江に叫ぶ。仁木は、すっと春江の側に立ち、マント翻して火から春江を守った。
「今のあなたにはどうすることもできませんよ」
 仁木の言う通りだった。今の自分には何もできない。目の前で人が苦しんでいても、助けるどころか、逆に助けられた。これが現実なのだ。
 そのように春江が思いを巡らせた同刻、男は橋から飛び降りた。その後、男に憑いていた霊は恍惚の表情を浮かべながら去っていった。
 この様子を春江は愕然としながら眺めるしかなかった。
「死後の待遇に絶望した者は、自暴自棄になり、隠された破壊願望があらわになる。自分ばかりが不幸になったと自らの境遇を呪い、生きている者の不幸を願う。そうすることによって絶望からくる衝動をどうにかして解消したいと思うのでしょう」
「……私もそんなことをすると言いたいのですか?」
「場合によっては……」
「見損なわないでください! こんな酷いことしません!」
「そう言いながらも、結局は多くの者が闇に落ちる。私はこれまでに数限りない闇を見てきたんですよ」
「そんなことは……」
 春江がそう言いかけた時、仁木は先ほどの憑依霊を指さして言葉を遮った。
「見てください。さっきの悪霊……報いを受けそうですよ」