悪魔の微笑みの男
と呼ばれるものが近いかも知れない。
これは、
「大きな人形が蓋になっていて、その蓋を開けると、中からまた人形が出てくる」
というものだ。
これが繰り返されることで、中から、どんどんと小さな人形が出てくる。
これも、
「限りなくゼロに近い」
というものに対して、
「無限」
というものの存在を証明しているということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「合わせ鏡」
というものと、
「マトリョシカ人形」
というものは、それぞれに、
「限りなくゼロに近い」
という存在のものを、
「無限である」
ということへの証明するものとして存在しているといってもいいだろう。
「証明するために存在している」
というと、
「存在意義が曖昧な気がする」
と感じるが、他のものを考えた時。
「そもそも存在意義など考えるものではない」
ということから、
「マトリョシカも、合わせ鏡も、その存在意義というものに対して、立派なものを持っている」
といってもいいだろう。
要するに、
「自分の中であったり、世の中の何かの証明になる」
というだけで、
「立派な存在意義がある」
といってもいいだろう。
今まさに大人になろうとしていた道子に対して、
「今がその大人になるということの節目の一つを迎えている」
ということであり、
「今なら、彼女は大人として、自分の運命を受け入れられる準備が整ったのかも知れない」
と感じたのだろう。
大人になるということは、
「人生の頂点を極める」
というわけではない。
「人生、終生勉強だ」
という人がいるが、まさにその通りということで、
「人生にはタイミングというものがある」
ということである。
つまり、
「何かを修得したり、納得して受け入れられることができるというのは、その時以降から」
というわけではなく、むしろ、
「その時、そのタイミングしかない」
ということの方が往々にしてあるだろう。
なぜなら、
「人生、生きていくうえで、その都度新しいことを吸収し、覚えていくのだから、昨日の自分とは違うという観点から、その日ではないとだめだということもあると言えるのではないか?」
と考えられるからであった。
その時は、
「タイミングに合わせた説得」
というものが必要で、
「せっかくタイミングが間違っていなくても、説得できるだけの力がないとだめだ」
ということになるだろう。
タイミングというのは、
「相手を納得させることができる機会を得た」
ということで、
「第一関門を突破した」
というだけのことである。
つまり、
「重要な話をする」
ということにも、
「いくつかの、越えなければいけないハードル」
というものがあり、そのハードルを乗り越えることができるのかどうか、それは、
「説得しようとしている」
という人間にしか分からない。
ただ、聞く人間としては、
「それだけの心構え」
というものが必要であり、その心構えであったり、覚悟というものをその人ができているのかどうかを判断するのも、
「話をしようとしている人」
ということになるのである。
だから、
「話をする」
という人には、それだけの責任と覚悟が必要であり、その覚悟は、
「聞く相手に、聞くための心構えや覚悟を与える」
ということができなければ、話をしても、相手を納得させるということなど、できるはずもないだろう。
それを考えると、
「姉の存在」
ということを、いかに話せば、その事実を道子が受け入れられるのかということが問題である。
つまり、
「ただ話せばいい」
というわけではないということになるのだ。
タイミングというのは、
「説得できるはず」
というタイミングであり、
「説得できる」
というタイミングではない。
タイミングと、さらには、相手に覚悟と心構えを与える」
ということの両方をすることができれば、
「説得力」
というのがついてくるということで、この
「説得力」
というのは、
「そのことだけの説得力」
というだけではなく、
「この経験が、実際に自分をいかに説得力のある人間に育てるか?」
ということで、
「経験値が上がることで、同じような機会が訪れたとしても、うまくいかせるという確率は高まる」
というものだ。
これが、
「経験値」
というもので、
「世間で求められる経験による説得力」
というものであろう。
これが備わると、
「タイミング」
というのも、自ずと分かってくるようになり、今度は、
「人との出会い」
であったり、
「仕事などの巡りあわせ」
というようなものが、
「一つのタイミング」
ということで、
「自分にとってのチャンスというものを逸することがない」
ということになるのだ。
それが、
「タイミングと覚悟」
というものとなるのではないだろうか?
姉の存在
「姉の存在」
というのは、あくまでも、
「お姉さんがいて、里子に出された」
という事実しか知らされていない家政婦だったが、さすがに、
「双子は忌み嫌われる」
ということくらいは知っていた。
ただ、実際に起こった、この時から十数年前に、そこまで分かっていたのかどうか、自分でもよく分かっていないようだった。
家政婦はまだその頃は、新人だったといってもよく、先輩家政婦から、叱られながら、仕事を覚えていた時期であった。
だから、
「里子に出した」
という事実しか知らされず、ただ、
「誰にもいうな」
ということだけ徹底させられていた。
これだけの、豪邸に住む人たちであれば、秘密の一つや二つあっても当たり前のことだということは分かっていたのだった。
当時のサスペンス劇場で、よく、
「家政婦が、働いている金持ちの家庭の秘密を握り、それが事件と結びつく」
というような話があったものだ。
そういう意味で、
「サスペンス劇場のネタになるだけの、十分な魅力が、金持ちの豪邸にはあるのだ」
ということで、それが、
「秘密」
というものであり、
「絶対に公表できない」
というものでもあることから、事件性は、十分に秘めているといってもいいだろう。
それを考えると、
「叩けば埃の出る」
というのは、まさにこの家のような家庭であろう。
実際に、
「姉がどこにもらわれていったのか?」
ということも、
「当時まだ新人家政婦だった自分に、分かるはずなどない」
ということは分かっている。
しかし、
「当時ベテランだった、家政婦長のような人にも、極秘だったのだろうか?」
と考えると、
「正直、自分でも分からない」
と言える。
しかし、少なくとも、あの時の家政婦くらいの立場には、今の自分はなっているはずではないかと思える。
だとすると、
「あの時の家政婦にも秘密だったのかも知れないな」
と思った。
秘密を知るということは、
「それを漏らしてはいけない」
という大きな責任を負うということになるわけなので、



