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悪魔の微笑みの男

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「一つの節目だ」
 と思っていた。
 そもそも道子は、
「大人になる」
 ということを、いくつかの段階があると感じていたのだ。
 一つが、
「思春期を迎える時」
 ということで、
「まずは、肉体が、大人の女になるために変化する」
 ということで、女性であれば、
「胸が膨らんできた李、初潮を迎えたり」
 と肉体的にだけではなく、大人としての、性欲のようなものも出てくるということは感じていたのだった。
 男性もその通りだということは理解していた。
 特に男性は、胸が膨らんできたり」
 などという、肉体的な変化は、
「大人の女」
 というように分かるわけではない。
 しかし、
「思春期の特徴」
 ということは、ハッキリと表れている。
 正直、
「女性としては気持ち悪いとしか思わない」
 ということであるが、当の本人も、自分にそんな変化が現れることを、果たしていい方に解釈できるのだろうか?
 逆に、
「これが俺なのか?」
 と気持ち悪く思っていることだろう。
「思春期の間だけ」
 ということを言われているが、
「このまま一生消えないかも知れない」
 と思えば、怖くて仕方がないともいえるだろう。
 それは、顔にできる、
「ニキビ」
 であったり、
「吹き出物」
 と言われるものだ。
「中学生であれば、ほとんど皆がニキビができる」
 といっても過言ではないだろう。
 なんといっても、
「気持ち悪い」
 と思えて仕方がないのだが、女の子も、そのことに対して、わざと触れないようにしているのではないだろうか?
 大人であれば、自分の中学時代を思い出して、
「変に話題として触れられるのは嫌だ」
 と思っていたことから、大人が触れることはないだろう。
 確かに、見た目が気持ち悪いということでもあるのだが、それ以上に、
「ニキビというのは、抑えられない性欲の現れ」
 ということで、
「ニキビの話題に触れる」
 ということは、
「その時期一番恥ずかしい」
 と感じてしまう、自分の中にある性欲というもので、
「開けてはいけない玉手箱」
 のように、わざと話題に触れないようにしないといけないということを証明しているということのようだ。
 それは、日本のおとぎ話であったり、欧州などの、神話のようなものには必ず出てくるといわれる、
「見るなのタブー」
 というものではないだろうか?
「下手に触れると、その報いがやってくる」
 というもので、
「人間には、その生きていくうえでの節目には、必ず存在するものだ」
 といってもいいだろう。
 だから、大人になる中での、それぞれの段階としての最初が、この、
「思春期を迎える」
 という時であり、もう一つは、
「やはり、
「初体験」
 ということであろう。
 それまで、無限で遠い存在という意識だったものの一つのゴールが見えてきたということで、
「それまで無限でしかなかったものの一つが見える」
 ということで、後ろを振り向いた時、それまでは何もなかったはずの場所に、
「大人になったことで、子供時代の象徴のような形で備わっていた荷物を下ろすというような感覚だ」
 といってもいいだろう。
 その、子供時代の象徴というものが、今度は形を変えて、
「歩んできた道」
 という形で見せるのだとすれば、それまで歩んできた距離の感覚が、ぐっと遠くなるというもの、分からなくもないといってもいいだろう。
 だから、
「後ろを振り向いた時のその距離」
 というのが、遠く感じられるということになる。
 しかし、前は、
「相変わらずの遠さで、無限にしか見えない」
 ということであり、その理屈が、
「前はそのまま無限である」
 ということと、
「後ろは、着実に前に進んでいる」
 ということで、置いてきたものが道になることで、当然、その距離が経験を示しているといってもいいだろう。
 だから、
「一生の道」
 というものが、本当は不変ということであるはずなのに、見えているものは、
「生きていくにしたがって、どんどん長くなっていく」
 と考えると、
「本当に、人間というのは、死ぬのだろうか?」
 と考えてしまうのであった。
 ただ、人間というのは、いや、これは人間に限らずであるが、
「動物というのは、寿命というものがあり、必ず死というものを迎える」
 ということは決まっているのだ。
 中には、いろいろな理由で、
「寿命をまっとうすることなく、死んでしまう」
 ということもあるだろう。
「事故などによって、突然、予期せずに命が奪われる」
 ということ、さらに、
「予期せぬということでは、誰かに殺される」
 ということもそうかも知れない。
 その中には、
「戦争などによって、殺戮目的の中に巻き込まれるという形で、命が簡単に奪われる」
 ということもある。
 さらには、
「自ら、命を断つ」
 ということでの、自殺ということもあるだろう。
 だから、
「寿命をまっとうしての、大往生」
 というのは、うらやましいといってもいいだろう。
 ただ、本来であれば、
「寿命をまっとうする」
 というのは当たり前のことではないだろうか。
 そうでなければ、
「何のために、寿命というのがあるというのか?」
 ということであるが、実際に、
「その人の寿命というのが、いくつなのか?」
 ということは、誰にも分からない。
 もちろん、
「本人に分かる」
 というわけでもない。
 だからこそ、人間は、基本的には、
「寿命をまっとうしようとして生きる」
 ということになるのだ。
 それは、
「権利であり義務」
 といってもいいだろう。
「寿命まで生きる」
 という権利。そして、
「寿命まで生きなければいけない」
 という義務。
「それぞれ、どちらが優先されるべきことなのだろう?」
 どちらも、同じことであるにも関わらず、考え方の違いで、権利にも義務にもなる。それぞれ、正反対というものであってもである。
 それこそ、
「鏡に映せば、左右は反転する」
 ということと同じだといってもいいだろう。
 そんな権利と義務というものを考えると、
「世の中は、まるで合わせ鏡のようではないか?」
 と考えると、それこそ、
「無限だ」
 といえる。
 しかし、
「人間の命には必ず終わりがあり、その終わりが、また新たなものを作り出しているのではないか?」
 と考えると、
「子供を産んで、そのまま死んでしまった」
 という親は、
「きっと生まれた時から、子供を産むために生まれてきた」
 といっても過言ではないと考えたのだ。
 しかし、寿命をまっとうしたとしても、結局は、
「子供を産んで、その子を育てる」
 ということから、
「さらに、その子供が大人になって、さらに子を設ける」
 というのを見ていくことになるわけで、その時は、
「自分が主導で育てる」
 というわけではないので、それこそ、
「合わせ鏡」
 のように、小さくなって、限りなくゼロに近づいてくるが、それは無限の証明であるということを示しているかのようではないだろうか?
 そういう意味で、
「限りなくゼロに近い」
 というものに違づいてくるというのは、
「合わせ鏡」
 というものではなく、
「マトリョシカ人形」
作品名:悪魔の微笑みの男 作家名:森本晃次