悪魔の微笑みの男
というものを確認しようと後ろを見た場合、スタート部分までの距離は、想像していた通りだと言えるだろうか。
振り返った後ろにつながっている道は、想像以上にスタート地点が遠くに感じられるのではないだろうか?」
そんな風に感じ、さらに今度はまた前を見ると、
「まったく先の見えない無限の道」
という感覚を思い知らされるような気がしてくるに違いない。
「前を見て、そこに存在している道が無限に続いている」
と感じるのだろうが、その先に見えているものは、見えてこないというのは、後ろを見た時に、想像以上に遠かったということからも、証明されるということになるのではないだろうか?
「不安を感じる」
というのは、
「前を見て、そこから先につながっている無限を見た」
ということからではなく、
「後ろを振り返った時、歩んできた道が、想像以上に遠かった」
ということを感じたことだろう。
つまり、
「不安を感じる」
というのは、その比較になる何かの存在が不可欠なのではないかということを思い知らされたという気持ちにさせられるのであった。
実際に比較するためには、
「反対という意識が必要であり、特に、反対であったり、対となるものを比較対象として考えることは往々にしてある」
ということが言えるだろう。
例えば、
「無限」
というものを考えた時の、
「合わせ鏡」
というのも、対称の一つであろう。
これは、
「自分を中心において、前を後ろに鏡を置いた時、目の前にある鏡に何が映っている」
ということになるのかということである。
目の前には、まず自分が映っていて、その向こうには、こちらを向いている鏡が映っている。そして、その後ろの鏡には、今度は自分の後ろ姿が映っているのだ。さらに、その先には、自分が最初に見た鏡が映っている。そして、さらにそこには、鏡を見ているという時分が映っている……。
その現象を、
「合わせ鏡」
というもので、その鏡は、自分の姿を、前後ろの違いこそあれ、どんどんと小さくはなっていくのだが、どこまでも映し出すという効果があるのだった。
その鏡の効果というものが、
「その人の人生」
というものの、距離というものであり、合わせ鏡によって映し出される無限というものが、どんどん小さくなっていくのだが、
「限りなくゼロに近い」
ということで、
「絶対にゼロにはならない」
ということを証明しているようで、それが、一緒に、
「無限である」
ということを証明しているかのようではないだろうか?
それが鏡というものであり、鏡には、さらに不思議な魔力が備わっているといってもいいのではないだろうか。
それこそが、鏡が織りなす世界としての、
「上下と左右の違い」
といってもいいかも知れない。
というのは、
「鏡に正対し、鏡の先にある世界を見た時、左右は反転するが、上下は反転しない」
ということである。
左右に映った文字であったり、自分の身体の左右を考えた時、
「文字は、反対に映っていて、腕を上げると、反対の腕を上げているように見える」
ということだ。
一言でいえば、
「鏡は映ったものをその通りに表現する」
というだけで、そこに、何ら細工も意図も感じられないといっていいだろう。
だから、上下も反転するわけではないということなのだが、ただこれだけでは、
「鏡は左右は反転するが、上下は逆さまにならないのか?」
という答えにはならないということであろう。
その理由に関しては、ハッキリと決まったものはないということであるが、左右を反転させる効果としては、
「こちらから見た時に、
「もし鏡がなければ、相手は、向こうを向いている」
ということから、そもそも、同じ向きになっているということを証明するためには、反転させるという意識が必要だということになるのかも知れない。
これも、
「反転させて見ている」
と考えるからややこしいのであり、
「実際に目に見えることで証明する」
と考えれば、上下が反転しないということも理屈として分かるのではないだろうか?
タイミング
道子が、
「姉の存在」
というものを知ることになったのが、中学卒業くらいの頃だっただろうか?
姉といっても、双子なので、姉という意識があるわけではない。しかも、一緒に暮らしてきたわけでもなく、いきなり、
「双子の姉がいた」
という事実を突きつけられて、果たして、
「ああ、そうなんだ」
と、簡単に受け入れられるわけはない。
このように、冷めた反応しかできないということであり、その事実を受け入れるというのは、却って意識としては、スルーすればいいというくらいのものだったのだ。
この事実は、実家の家政婦から教えられた。
「大叔母様たちは、きっとこの事実を墓場まで持っていかれると思っていると感じるのですが、私はどうしても黙っておくことはできないんですよ」
という。
そもそも、実家では、時系列の事実として、
「母親がお産のために戻ってきて、ここで子供を産んだ」
ということがまず最初。
「その子は双子で、姉の方は、召使に育てられることになったが、母の方は、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまった」
ということであった。
実際には、出産と同時に亡くなったということであったが、そのことは、道子に明かされることはなかった。
それは、家政婦とすれば、
「大した違いはない」
ということと、普段から、
「産後の肥立ちが悪く、母親は亡くなった」
ということを洗脳されるかのように聞かされ続けたことで、まさに、
「その通りなんだ」
と、完全に洗脳されてしまったということであった。
もちろん、そのことが違っただけで、何か態勢に大きな違いを生むということもなく、それだけ意識をしなかったということになるのだろう。
実際に、
「家政婦が何を言いたいのか?」
ということが分かるわけでもなく、彼女は、ただ、淡々と話を聞かせるだけだということであった。
家政婦が、
「黙っておくことができない」
と感じたのは、その頃になって、
「家のまわりを徘徊している高校生くらいの女の子を見るようになった」
ということを、その家政婦が感じたからだった。
最初は、そのことを誰にもいわなかったのだが、他の使用人の人たちも、
「何やら怪しげな人物の存在」
ということが気になっていたのだが、相手が、
「高校生くらいの女の子」
ということで、
「気にする方がおかしい」
と思った。
それこそ、
「お嬢さんのお友達なのではないか?」
ということで、それほど、気にも留めていなかったということになるということであった。
だが、
「道子には双子の姉がいた」
という事実を知っているのは、今では、この家政婦だけということであった。
その当時からの使用人は皆入れ替わっているからだ。
「道子が、もう高校生になる」
というのだから、それも当たり前のこと。
家政婦の彼女だけでも、昔からの人が残っているというのは、実に珍しいことだと言えるのではないだろうか?
中学を卒業したということで、道子としては、



