時系列に沿った別世界
「実際に死ぬかどうかは関係ないが、こちらの世界か、向こうの世界において、それぞれの世界の存在を、立証できないようにするための発想」
ということであれば、
「相手も同じような都市伝説を感じていて、お互いに合わないようにしているのではないか?」
ということである。
なるほど、都市伝説というものは、向こうの世界にもあるということなのだろう。
そうなると、
「次元の違う世界」
というのは、鏡のような世界なのかも知れない。
お互いに意識はしているが、その意識の中で、
「惹き合う存在のものがあれば、それがドッペルゲンガーではないだろうか?」
とも考えられる。
しかし、逆に、磁石の同極のように、
「反発しあう」
という関係こそが、ドッペルゲンガーかも知れないともいえるだろう。
惹き合うというのは、それぞれに、力によるものではなく、自然とくっつくということであれば、それこそ、
「同種の動物」
ということで、見た目は区別がつかないものということであれば、まるで、
「本能による存在」
といってもいいかも知れない。
そこには、何ら力関係も思惑も存在せず、まるで、
「路傍の石」
のような関係に感じられる。
それこそ、
「似て非なるもの」
というような、
「ただ似ているというだけの存在」
ということになるのだろう。
それは、生物にしか存在しないということを考えると、
「少なくとも、本能というものが存在しないと、ドッペルゲンガーとは言えないのではないか?」
ということであった。
もっといえば、
「ドッペルゲンガーというのは、他力本願ということではなく、自分たちに存在する本能という力のなせる業」
ということではないかと考えると、
「ドッペルゲンガーを見れば、近い将来に死んでしまう」
という謂れも、本能という力にゆだねられていると考えられる。
つまり、
「ドッペルゲンガーというのは、人間の本能という力が生んだ」
というもので、本能という意味では、
「人間よりも、動物の方が強い」
ということで、
「動物にもドッペルゲンガーはあるのではないか?」
と考えられる。
しかし、逆にいえば、
「ドッペルゲンガーというものが、本能によって創造されたもの」
ということであれば、
「本能というものを証明できれば、ドッペルゲンガーの存在を証明できる」
といえるだろう。
実際に、本能というものがどういうものなのかということは、感性としては分かっているだろう。
そして、それを、
「証明できている」
と考えているのだが、ドッペルゲンガーという考え方から、
「ドッペルゲンガーを証明できないということは、本当の意味での本能を証明できていない」
ということいなるだろう。
K大学の研究室は、そういう意味で、
「ドッペルゲンガーの研究は、本能の研究の延長線上にある」
と考えるようになったのだ。
となると、この世において言われている、
「自然の摂理」
というものが、
「生命のあるものすべてにいわれることだ」
ということになる。
「あくまでも、大きな車輪のようなもの」
ということで、
「どこかの歯車が狂えば、すべてがかみ合わなくなり、想定している結果を求めることができない」
ということになる。
「自然の摂理」
というものが、そういう、
「大きな歯車」
ということで、狂った歯車というのは、
「必ず、元に戻そうという力が働く」
というものだ。
いわゆる、
「反発」
というもので、この世ではあまりいい意味で使われることはない。
「人間は一人では生きてはいけない」
ということは当たり前のように言われていて、これは動物であっても、
「集団行動で生きるのが動物の本能」
ということで、人間も動物も、
「孤独では生きられない」
ということであろう。
しかし、野生の動物ともなると、そうもいかない。
「天敵である動物が、生きていかないといけない」
ということで、
「弱肉強食」
という理屈から、相手を襲うことになる。
中には、
「集団行動する」
ということで、その危機から逃れるということで、
「たくさんいれば、その中から自分が選ばれるという可能性は低いだろう」
という考えもあったりする。
しかし、間違ってはぐれてしまい、一人になってしまえば、それこそ、天敵の望むところといってもいいだろう。
それを、
「運命ということで受け入れる」
ということが正しいのかどうか難しいところであるが、実際には、
「受け入れるしかない」
ということだ。
「死んだ動物は、生き返ることはできない」
ということだからである。
ただ、それは本当なのだろうか?
ひょっとすると、
「食われた瞬間に、別の生命として生まれ変わっているのではないだろうか?」
その時には、
「記憶というのは必ず消して」
ということである。
記憶が残っていれば、
「生まれ変わる」
ということが証明され、動物は、
「もし、死んでも生まれ変わることができる」
ということを分かったとすれば、どういう行動に出るだろう。
人間であれば、その現象を解明し、
「人間の思いのままに、生まれ変わりというものを可能にできるように」
ということで考えるに違いない。
しかし、もし、神という存在がいたとすれば、それを、
「神が許す」
ということになるのだろうか?
もし、それを許してしまうということであれば、
「今まで、神話や聖書などで、神がいさめてきたことを教えとして起こった宗教が、信じられないということになる」
というものだ。
だから、
「生まれ変わることができる」
というものは、あくまでも、
「神による力」
ということにしておかないと、実際の、
「自然の摂理」
というものが狂ってきて。ひいては、すべてのバランスが崩れ、
「生物はすべてが死滅する」
ということになるだろう。
ただ、これを、
「無限」
という発想から考えると、
「最後には無になることで、無限が途切れてしまう」
ということになり、その力は、
「神にしか許されていないものだ」
ということになる。
「自然の摂理」
というのは、バランスであるということは、そのバランスを構成している生命には、それを操ることはできない」
ということで、結論として、
「人間に、自然の摂理を操る。つまり、生まれ変わりというのは、操作することができない」
ということになる。
だから、人間には、
「生殺与奪の権利」
というものは存在しないといっていいだろう。
人間牧場
この世では、
「動物愛護」
ということで、
「動物を守る」
と言われている。
確かに、
「理不尽な動物の殺傷というのは、許されない」
といってもいいかも知れない。
それはあくまでも、
「人間の私利私欲で、勝手に殺傷する」
ということで、
「自然の摂理」
というものによる、
「バランスの崩れ」
というものを制御するということではない。
だから、基本的には、
「すべての動物が対象」
ということであろうが、その中に、
「害虫」
作品名:時系列に沿った別世界 作家名:森本晃次



