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時系列に沿った別世界

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 ということを思い受かべることができるだろう。
 というのは、
「タイムマシンの開発」
 というものがなかなか進まないという理由に、
「タイムパラドックス」
 というものがあるという。
 これは、タイムマシンが開発されたとした場合、
「過去に行った」
 ということになると、
「自分が過去に行ったことで、そこから先の未来を変えてしまった」
 というものである。
 この考え方には大前提があり、それが、
「タイムパラドックス」
 という考え方である。
 つまり、
「未来において、次の瞬間には、
「無限に広がる可能性」
 というものがあり、その可能性が、
「世界」
 というものであるということである。
 次の瞬間には、
「無限にある可能性」
 ということであり、さらに、その次には、鼠算的に、さらに、無限が広がっているということになるわけで、
 そもそも、
「無限というものに、何を掛けても、結果は無限というものである」
 ということである。
 しかし、元々の無限というものと、掛けた後の無限というものは、
「違う無限」
 ということであり。
「そもそも、この無限という言葉は、曖昧で形にすることができないものを、便宜的に、無限という言葉で表している」
 ということになるのではないだろうか?
 それを考えると、
「無限は限りないものであるが、その代償として、何か考えるものがあるのではないか?」
 ということであったが、それこそが、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョシカ人形」
 というような、
「無限というものの考え方としてあらわされるもの」
 といってもいいのではないだろうか?
 合わせ鏡のように、
「自分の左右に鏡を置くと、その奥にまた自分が映し出され、さらにその向こうにも自分が映し出される」
 ということで、
「無限」
 という発想である。
 そして、それがどんどん小さくなっているという状態において、
「決して、ゼロになることはない」
 という発想が生まれてくる。
「薄い紙を何重にも重ねると、次第に分厚くなる」
 というのも、当たり前のように思えるが、発想としては、
「合わせ鏡の逆」
 ということで、
「限りなくゼロに近いものを重ねていくと、次第に形になってくる」
 ということで、合わせ鏡の無限というのも、
「限りなくゼロに近い」
 という発想が、無限というものを証明しているということになるだろう。
 そう考えるから、
「無限というものは、限りなくゼロに近いという発想によって証明され、それが、誰をも納得させる」
 ということになるといってもいいだろう。
「不可思議な現象」
 ということであるが、誰もが、その存在を信じて疑わないといってもいいだろう。
 それこそが、
「無限へのパスポート」
 といってもいいのかも知れない。
「ドッペルゲンガー」
 というのも、その前提として、
「その存在を見てしまうと、近い将来死んでしまう」
 ということが、何かの証明ということになり、その証明が、
「世間を納得させる」
 ということになるとすれば、
「人間だけ」
 ということであれば、
「なかなか証明も、納得もできない」
 ということになるのかも知れないが、これが、
「動物にも言えること」
 ということであれば、どこかに納得させる何かがあるとしても、不思議のないことなのかも知れない。
 あくまでも、
「動物というものを納得させる」
 という団体というか、研究室が、実は、
「この世」
 にも、
「こっちの世界」
 にも存在している。
 そもそもの、発想が違っている別世界ということなので、
「研究している内容は同じ」
 ということであっても、
「求める答えに対しての究明」
 というものは、違っているといってもいいだろう。
 動物というものが、
「一匹一匹では判別がつかない」
 というのは、どちらの世界でも、
「当たり前」
 とされている。
 しかし、この世では、
「自分の子供は、血のつながりがあるから、どんなに離れていても、生まれた時しか知らなくても、一目見ればわかる」
 と信じされているが、こっちの世界ということでは、
「そんなことはありえない」
 と言われているようであった。
 それこそ、
「こっちの世界」
 における、
「ドッペルゲンガーの否定」
 といってもいいだろう。
 しかし、実際に
「この世で言われているドッペルゲンガーとは違う」
 というだけのことで、それを納得させられれば、
「それぞれの世界で、別々にということになるが、それこそ、偶然という言われ方において、ドッペルゲンガーの証明」
 というものはされるということになるだろう。
 だが、結果として、
「納得させられることはない」
 ということから、
「この世では信じることができると言われても、こっちの世界では、ドッペルゲンガーを認めるわけにはいかない」
 ということになるだろう。
 それだけ、
「ドッペルゲンガー」
 というものへの壁は厚いということで、それこそ、
「無限」
 と呼ばれているものを、納得させるということよりも、難しいのではないかと考えられる。
 それはあくまでも、
「無限ということを、納得させるためには、ドッペルゲンガーへの納得が不可欠だ」
 ということになるからではないだろうか?
 まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 というような、それぞれの順番であったり、
「優先順位」
 というものが大切になってくるということであろう。
 K大学の理工学部の研究室で、
「ドッペルゲンガー」
 について研究しているところがあった。
 その研究室では、それまでの研究と違い、画期的なことということで、
「動物にもドッペルゲンガーがある」
 という考え方であった。
 そもそも、人間から見て、同一種の動物であれば、オスとメスの違いでされ、ハッキリと分からないのだから、ドッペルゲンガーの存在を理屈として証明できても、
「果たして学会で説明できるか?」
 ということである。
 そもそも、
「同じ人間」
 ということであっても、
「何をもって同一とするか?」
 ということになるのだ。
 つまりは、
「見た目が似ている」
 という外見上のことと、性格的なことが合致しなければ、基本的に、
「同一人物」
 とは言えないだろう。
 今の時代であれば、
「DNAの合致」
 ということになるのだろうが、こちらも、あくまでも、合致が遺伝子ということであり、
「次元が違う」
 という人間に、
「遺伝子が同じ形で存在しているのか?」
 ということであるが、理屈から考えると、
「同じ人間ということであれば、次元が違ったとしても、遺伝子もDNAも同じだといえるのではないか?」
 しかし、それを証明することは難しい。なんといっても、
「ドッペルゲンガーを見れば死ぬ」
 ということなので、へたに接触はできないということであろう。
 これを逆に考えると、
「ドッペルゲンガーの存在というのは、別次元の存在というものを認識させないために存在していて、そのために、見ると死ぬなどという都市伝説が生まれたのではないだろうか?」
 つまりは、
作品名:時系列に沿った別世界 作家名:森本晃次