時系列に沿った別世界
「中途半端なことをしなければ、こんな問題は起こらなかった」
といっていいだろう。
江戸時代に、
「天下の悪法」
と言われた、
「生類憐みの令」
というものがあった。
将軍綱吉が、子供ができないことの原因究明に、祈祷をさせると、
「前世で動物を保護しなかった因果が今報いとなって表れている。動物を愛護すれば、跡取りができる」
ということでできたのが、この、
「生類憐みの令」
というものであった。
しかも、
「上様は戌年だから、犬を大切にしなければいけない」
ということで、特に犬を大切にすることとなった。
考えてみれば、
「戌年だから」
というのは、まるで取って付けたかのようではないか?
それを考えると、
「よくも、そんなことに惑わされたものだ」
ということである。
だから、
「動物に対して、乱暴したりすれば、処刑される」
ということも普通にあった。
そのため、犬を飼っていた人が、
「自分の犬が他人に迷惑を掛けたり、自分の足を引っ張るような真似をして、処刑されでもしたら」
ということで、皆、ペットを捨てるようになったということである。
そのため、
「世に、野良犬が増えて、それこそ社会問題になった」
ということであり、そのために、幕府が、
「野良犬を保護するために、大きな場所を作ることになった」
ということで、そもそも、
「飼い主が面倒を見る」
というのが当たり前という理屈が崩壊してしまったのであった。
しかも、
「人間よりもお犬様」
ということで、本来であれば、
「人間の権利」
であったり、
「義務を果たすために必要なこと」
というのを、犬の存在のせいでできなくなり、処刑されるということもあったという。
つまりは、
「人間よりも、動物」
ということで、
「人間至上主義」
という世界の中で、強引に、
「生類憐み」
ということで、
「動物至上主義」
という世界になってしまったということであった。
本来であれば、
「生類憐みの令」
ということで、何が失敗だったのかというと、
「人間至上主義」
というものが、倫理でありモラルの世界において、動物を大切にしないといけないという状況を作ったことで、無理な世界を作り上げたことである。
だから、
「動物を大切にする」
という考えを根深セルためには、時間を掛けて、その政策に対して、道理として通るというような、
「できるだけ、誰もが納得のいく」
という土台を作らなければいけないということであろう。
もちろん、いろいろな考えの人が存在しているわけなので、
「すべての人に納得させる」
という考えを持たせるわけにはいかない。
しかし、少しでも、そのことに近づけるということであれば、少しは違うであろう。
今の、
「民主主義」
というのは、あくまでも、
「過半数」
という、
「数の論理」
というだけの考えなので、うまくいかないのだ。
あくまでも、
「数の論理」
ということではなく、自分たちの主義という考え方を、いかに、まわりの者に納得させるかという考えこそが、説得力になるということになるのではないだろうか?
そんな世の中において、
「この世」
というのは、それなりに矛盾であったり、理不尽を抱えながら生きているということになるのだろうが、
「こっちの世界」
というところは、
「少しでも納得させる」
ということが基本になっているということで、そのためには、
「最初から下準備をして、まわりに納得させる」
ということを最優先とするという考えに特化した世界である。
この世においても、基本に変わりはない。
政府としても、下準備であったり、世間を納得させなければいけないということは分かっているのだ。
ただそれは、
「まわりを従わせる」
という意識からのものである。
というのは、
「人はいろいろな考えがある」
ということを前提に考えているからであり、まずは、納得させることが先決だと考えれば、結局は、
「いろいろな考え方を許したうえで、その解決方法が自ずと考えた方法の中に存在している」
ということになるという考えが、
「こっちの世界」
の理屈であり、世の中の秩序というものということであった。
この世と、こっちの世というものの違いということで、一つ考えられるものがあった。
「世の中には、似ている人が三人はいる」
と言われている。
確かに、人間であれば、
「顔が違う」
ということで、他人か本人かというのは、すぐに分かるというものである。
しかし、動物はそうであろうか?
「犬か、猫か?」
というのは、見ればすぐに分かるだろう。
犬であったとしても、
「ポメラニアンか、シベリアンハスキーか?」
などというと、その大きさであったり、顔の特徴というもので分かるというものだ。
「別の動物」
というのも、
「同じ動物でも、種目が違う」
ということであっても、人間には見分けがつくといえるだろう。
しかし、
「同じ犬で、同じ、ポメラニアン」
ということであれば、二匹がそばにいれば、その違いが判るであろうか?
「オスかメスか?」
ということもはっきりとは分からない。
ましてや、
「別々にいて、自分のペット可どうか?」
ということは、見た目では分からないだろう。
「なつき方」
というものであったり、特徴のあるリードをつけていたり、それこそ、観察に名札でも貼っていないと分からないだろう。
それこそ、
「人間の生まれたばかりの赤ん坊に、区別がつかない」
というようなものである。
「人間の赤ちゃん」
ということであれば、顔を見ているうちに、親であれば、見分けがつくようになるというのも分かることである。
しかし、よく言われるような、
「血のつながり」
ということで、
「母親だったら、自分の子供であれば、絶対に分かる」
と言われることである。
つまりは、
「もし、子供の頃に事情があって生き別れになったとしても、数十年経って大人になっていたとしても、母親だったら、たくさんの人の中から自分の子供を見つけ出すことができる」
などと言われているが、本当に可能なのだろうか?
それこそ、
「魔法使いのようなものだ」
ということであり、
「いくら血がつながっていようが、本当にそんなことができるわけはない」
といえるだろう。
親と子の結び付きというのは、どこまでの強さなのか分からない。
しかし、だからといって、
「母親だから分かるだろう」
というのは、完全に、
「責任を誰かに負わさなければいけない」
ということであれば、それは親しかないということになるのだ。
考えてみれば、
「子供が何か悪いことをしても、その責任は親にある」
ということで、
「教育が悪かった」
と言われるだろう。
もし、親子の絆ということであれば、
「教育どうのこうのではなく、遺伝によるものが、最優先されるべき」
ということになるはずだ。
そうでないということであれば、それは、
「世間が、責任の所在というものを、、誰かに押し付けなければいけない」
という場合に、
作品名:時系列に沿った別世界 作家名:森本晃次



